冬を待つボタン
八月の誕生日に、美桜は冬のコートを引っぱり出した。
晃はクローゼットの前で、いま着るものじゃない、と言った。美桜も知っている。外は三十四度で、冷房を強くしても首筋に汗がにじむ。それでも、紺色のコートの二番目のボタンが糸一本でぶら下がっているのを、春からずっと覚えていた。
来冬まで、と医師は言わなかった。代わりに、夏の終わりを目安に、と曖昧な声で説明した。だから美桜は、冬の話を自分からしない。
裁縫箱は菓子缶の中にある。白、黒、紺の糸。針山には昔、母が刺したままの太い針も混じっていた。美桜は細い針に紺糸を通そうとして、三度失敗した。
「貸して」
晃が手を出す。
「通すだけね」
晃は一度で通した。得意そうな顔をするので、美桜は糸を長めに引き抜き、すぐ針を取り返した。
コートを膝に広げる。ウールの重みが足に熱い。元の穴へ針を入れる。裏地には、前に付け直した跡が小さく残っていた。晃はものを乱暴に扱うくせに、同じ服を長く着る。袖口の毛羽立ちも、ポケットの内側のほつれも、買い替える理由にはならないらしい。
ボタンの四つ穴を斜めに渡す。手元が震えるたび、糸が布の表で小さな輪になった。爪で押さえて引けば、輪は消える。
晃は向かいに座り、冷たい麦茶を飲んでいた。テーブルには買ってきたチーズケーキが二切れある。蝋燭はない。美桜が頼んだ。
「そのコート、クリーニング出す?」
「ボタン付けてから」
「別に取れても困らないけど」
「困るよ。風、入るから」
晃はそれ以上言わなかった。
針を裏へ回し、同じ場所を何度も通す。美桜はこのコートを選んだ日のことを思い出しかけ、やめた。思い出は作業を遅くする。必要なのは、取れない程度の強さで留めることだけだ。
一度、晃にコートを持ち上げてもらい、前を合わせてみる。二番目のボタンはほかより少しだけ左へ傾いていた。美桜は糸を抜かず、裏から針を差し直した。傾きが消えるまで、あと二針だけ加える。
最後にボタンの根元へ糸を三周巻く。首ができ、布との間にわずかな余裕が生まれる。そこへ針をくぐらせ、小さな結び目を作った。
美桜は糸切りばさみを開き、結び目のすぐ上で閉じた。