冷蔵ケースの低い歌

 露子の新しい部屋には、まだカーテンがなかった。

 向かいのマンションの廊下灯が、窓からまっすぐ床へ落ちている。段ボール箱は壁際に三つ。布団は敷いたが、眠ろうとすると知らない建物の配管音ばかり耳についた。

 午前一時四十分、露子は財布だけ持って外へ出た。

 引っ越してきた町で、道を間違えずに行ける場所は駅とコンビニしかない。駅はもう閉まりかけているから、白い看板のほうへ歩いた。

 店内では、冷蔵ケースが低く歌っていた。

 うううう、と一定に続き、いったん途切れ、また始まる。棚の照明は白く、プリンの丸い蓋を一つずつ照らしている。露子は端から賞味期限を見た。今週、来週、再来週。日付だけは、この町でも迷わず先へ進んでいた。

 前の部屋の近くにも同じ系列の店があった。そこでは何を買うか考えなくてもよかった。店員の顔も、牛乳の棚も、レジから出口までの歩数も知っていた。

 ここでは全部が少しずつ違う。

 冷蔵ケースの扉を開ける。冷気が腕にまとわりついた。露子は小さな硬めのプリンを取った。

 扉を閉めたとき、奥の棚から銀色のスプーンが一本落ちた。

 音は思ったより軽かった。

 拾おうとすると、反対側から店員の手が伸びた。棚の補充をしていたらしい。二人の指先が触れる前に、どちらも一度止まった。

「すみません」

 店員が言った。

「いえ」

 露子は言った。

 店員はスプーンを拾い、プリンの蓋の上へそっと置いた。決まりきったサービスなのだろう。けれど露子には、まだ配置を覚えていない町から、小さな道具を一つ渡されたように見えた。

 レジを済ませ、店を出る。自動ドアの電子音が背中で鳴り、冷蔵ケースの歌はガラスの向こうへ遠ざかった。

 部屋へ戻ると、配管がまた壁の中で鳴った。向かいの廊下灯も変わらず床を照らしている。

 露子は段ボール箱を机代わりにし、プリンを開けた。銀色のスプーンが蓋の縁をこする。冷たさと甘さが、知らない部屋の真ん中へ一口分ずつ置かれていく。

 カーテンは明日買えばいい。

 今夜はこの明るすぎる床の上で、きちんと食べ終えてから眠ろうと思った。