冷蔵庫より静かな部屋
苑子が元同居人たちのグループチャットに送ったのは、電気代の明細だった。
〈最後の月、ひとり二千百八十円です。急がないのでお願いします〉
三人で暮らした部屋を引き払って、もう二か月になる。最後まで残った苑子が、公共料金の精算を任されていた。送金アプリのリンクも添え、金額を間違えていないか三度確認した。けれど火曜の二十時を過ぎても、既読は一つもつかなかった。
新しいワンルームには、冷蔵庫の駆動音がよく響く。前の部屋では、誰かのドライヤーや動画の笑い声に紛れて聞こえなかった音だ。苑子は買ってきた麻婆豆腐を皿に移さず、容器のまま食べた。帰宅途中に傾いたらしく、赤い油が蓋の縁にたまっている。山椒の小袋だけが、きれいなまま残った。
ローテーブルの隅には、引っ越し後も整理できていないレシートの束があった。カーテン、延長コード、ゴミ箱、ひとり用の鍋。暮らしを一人分にするためにも、思ったよりお金がかかった。四千三百六十円が戻れば助かる。だから「急がない」は嘘だった。
〈振込先、分かりにくかったかな〉
〈計算表も送ります〉
入力欄に並べてみる。請求する側なのに、苑子の指は謝る形になっていた。
冷蔵庫が止まり、部屋が急に無音になった。廊下の向こうで、どこかの玄関が閉まる。苑子は麻婆豆腐の冷たい角を箸で崩した。温め直せばいいのに、そのために立つことさえ今日は面倒だった。
共同生活では、トイレットペーパーを最後に替えた人も、冷蔵庫のプリンを食べた人も、だいたい分かった。今は何も分からない。既読がつかない理由も、相手の夕飯も、部屋の明るさも。
苑子は追加の文章を全部消した。明細には期限が書かれているし、二千百八十円は正しい。相手の都合を想像して、自分の請求を小さくしなくていい。
スマホを伏せ、足元の小さな電気ストーブをつけた。料金は少しかかる。でも今夜、自分ひとりのために暖かくする分くらいは使っていい。
冷蔵庫がまた低く鳴り始めた。苑子は静かな部屋で、残りの麻婆豆腐を食べた。