削られた母音
小日向イヴの歌声ライブラリには、「ごめんね」を作れる母音がなかった。
病死したイヴの一周忌、母の喜多見千波は、娘の声を使った追悼曲の試聴室にいた。曲の最後、鍵盤もドラムも消えた空白で、合成されたイヴが確かに囁いた。
「ごめんね」
歌詞画面には表示されない。譜面にもノートがない。制作担当がプロジェクトを調べると、「め」に必要な音素だけがライブラリから削除されていた。削除者は千波だった。
千波は幼い娘へ歌を教えるたび、机を指で叩いた。
「ちゃんと聞いて」
音程を外せば録り直し。泣けば休憩を削った。イヴの声が商品になるころには、母娘の会話までクリックに支配されていた。病気が見つかってから、イヴは録音をやめたいと言った。千波は契約違反になると許さなかった。声を残せば娘は死なない、と千波は信じた。だがイヴにとって、永遠に使われる声は墓より狭い檻だった。収録のたび、母の顔ではなく録音ランプだけを見るようになった。
最後の収録日、イヴはマイクの前で一度だけ言った。
「お母さん、ちゃんと聞いて」
千波は再生ボタンを押さず、処方された鎮静剤を水へ多めに混ぜた。苦しまず眠らせるためだった、と自分には言い聞かせている。翌朝、イヴは目を覚まさなかった。
追悼曲のサビが再生され直す。明るい四つ打ちの裏で、消したはずのルームノイズが膨らむ。制作担当が合成声をミュートすると、残ったのは空調音と、コップを置く音と、千波自身の掠れた声だった。
――ごめんね。少し眠るだけだから。
「ごめんね」はイヴの歌ではない。ノイズ除去ソフトが、千波の囁きを娘の声域へ寄せていただけだった。削除された母音は、娘のものではなく、母の謝罪から拾われていた。
千波が停止キーへ手を伸ばす。
スピーカーから、録音日のイヴがもう一度言う。
「ちゃんと聞いて」
今度、その言葉は歌の指導を求めていなかった。
何を飲ませたのか。誰が謝ったのか。そこまで聞けという、娘からの証言だった。