割れない会計

深夜食堂の閉店まで、あと十分だった。

神崎菜摘は伝票を取り、牧田征志の前へ千円札を二枚置いた。征志は明日の始発で、故郷の高知へ戻る。父親の店を継ぐためで、東京へ来る予定はしばらくない。

「最後くらい、払わせて」

「割り勘で」

菜摘は一円単位まで送金する人だった。征志が缶コーヒーを買えば翌朝同じものを返し、映画の予約を頼めば手数料まで計算した。付き合って半年になるが、誕生日の贈り物も受け取っていない。征志は最初、それを几帳面さだと思っていたが、菜摘がごちそうになった直後だけ急に敬語へ戻ることに気づいていた。

レジ横の時計は二十三時五十二分。店主が暖簾を外し始める。ほかの客はもういなかった。

「俺といると、借金が増えるみたい?」

「そうじゃない」

「じゃあ、なんで全部返すの」

菜摘は伝票の角を指で折った。

以前の恋人は、食事も旅行も「俺が出す」と笑った。別れを切り出した夜、その金額を並べ、「これだけ使ったのに」と責めた。贈り物も親切も、あとから請求書になることがある。菜摘は二度と、好意の債務者にならないと決めた。

「割り勘なら、誰にも何も取られないから」

「俺は何も買ってない。菜摘の時間も、気持ちも」

征志は千円札を押し返さなかった。ただ自分のスマートフォンを開き、来月の勤務表を見せた。第三土曜だけ、店を弟に任せられるという。

「会いに来てとは言わない。借りを作らせたくないなら、次は菜摘が誘って」

閉店を告げる音楽が流れる。今ここで別れれば、きれいに同額で終われる。菜摘が得意なのは、余りを残さない関係だった。

彼女はレジへ行き、二人分の伝票を先に読み取った。征志が驚く間に決済し、予約サイトで高知行きの高速バスを開く。

「割り勘じゃなくて、次は私に払わせて」

第三土曜の座席を一つ選び、購入ボタンを押した。戻ってきた菜摘は、テーブルの千円札を征志の胸ポケットへ入れた。借りではなく、次に会う理由だけが残った。店主が消した照明の下で、二人の使ったグラスだけがまだ淡く光っていた。