助手席の相談料
妻を亡くして五年になる父が、「服を選んでくれ」と息子を呼び出した。
父は普段、作業着か喪服しか着ない。店へ向かう車の中で、息子は尋ねた。
「何の集まり?」
「食事」
「誰と」
「女性」
赤信号で、息子はブレーキを強く踏んだ。
「母さんの知り合い?」
「違う。図書館の読書会で会った人だ」
「付き合ってるの」
「まだ食事もしてない」
「じゃあ行かなきゃいいだろ」
父は窓の外を見た。
「お前に相談したのが間違いだった」
その言い方に、息子は腹を立てた。母の写真を処分したわけでもないのに、裏切られた気がした。
紳士服売り場で、父は灰色の上着を試した。
「派手か」
「地味すぎ」
「お前は昔から極端だ」
「父さんに言われたくない」
二人は鏡の前で黙った。
やがて父が言った。
「許可を求めたわけじゃない」
「じゃあ、どうして俺を呼んだの」
「一人で選ぶと、亡くなった母さんなら何と言うかばかり考える。今日は、生きてる誰かの意見を聞きたかった」
息子は返す言葉を失った。
父は母を忘れたのではない。忘れられないまま、次の一日へ行こうとしていた。
「俺も、離婚するかもしれない」
今度は父が鏡越しに息子を見た。
「いつから」
「半年くらい前から別居してる。心配させたくなくて黙ってた」
父は「何をした」「謝ったのか」と言いかけ、口を閉じた。
「お前は、どうしたい」
それだけ尋ねた。
息子は驚いた。子どものころ、父の問いはいつも答えを含んでいた。勉強しろ、我慢しろ、帰ってこい。けれど今の問いには、父の正解が入っていなかった。
「まだ分からない」
「そうか。分かったら聞かせてくれ」
息子は濃い紺色の上着を父へ渡した。
「こっち。母さんなら選ばない色」
「だからいいのか」
「だから、今の父さんが選べばいい」
会計を済ませると、父は助手席で財布を開いた。
「相談料」
「いらない」
「では交換条件だ。俺の食事の結果を話す。お前も別居の続きを話す」
「助言はなし?」
「求められるまでなし」
息子は手を差し出した。
「成立」
父も握った。
親子の握手にしては、少しよそよそしかった。
だが、どちらかが上から手を引くのではなく、同じ高さで結ぶにはちょうどよかった。