十二ページ目の赤
榊原凪紗は、月次報告書の十二ページ目で、自分の式が間違っていることに気づいた。
来店者数を前月比に換算するセル。分母に使うべき数字を、一つ隣の列から参照していた。グラフの形はそれらしく、会議でも誰も疑わなかった。けれど正しい数字に直すと、企画の効果は予定より低くなる。
凪紗は画面を閉じかけた。
修正版を誰にも言わず差し替えることはできる。共有フォルダの履歴が残る前に上書きし、会議資料だけ静かに更新する。以前の凪紗なら、昼休みを削ってそうした。間違いを直すのではなく、間違えた自分の痕跡を消すために。
マウスを握る手が冷たかった。上司は今日、外出中だ。チャットで報告すれば、返信が来るまで何度も通知を確認するだろう。「初歩的」「確認不足」という言葉を、まだ届いてもいない画面から読み取ってしまう。
凪紗は正しい式を入力した。グラフの棒が少し低くなる。
次に、修正箇所を赤く塗った。コメント欄へ「参照列の誤りを確認。十二ページの数値に影響あり」と書く。文章を柔らかくするための言い訳が浮かんだ。データ形式が紛らわしかった。締切が急だった。前任者の式を流用した。
どれも書かなかった。
代わりに、チームのチャットへ三行だけ送った。
「月次報告書の集計式に誤りがありました。修正版を共有します。会議資料にも影響するため、差し替えをお願いします」
送った瞬間、耳の奥で血が鳴った。凪紗は反射的にメッセージを削除しようとしたが、指を離した。
赤字の残ったファイルを、そのまま共有フォルダへ置く。
数分後、「確認します」とだけ返信が来た。責める言葉も、慰める言葉もなかった。だからこそ、凪紗は自分で自分を裁く準備を続けなくてよかった。
彼女は机の引き出しから、昼に買ったおにぎりを出した。いつもなら修正が終わるまで食べなかった。海苔は少し湿っていた。
十二ページ目の赤は、画面の隅にまだ見えている。凪紗はそれを消さず、最初の一口を噛んだ。