十八秒目は録音されない
平成六年、柏森那江の留守番電話は、一件につき十八秒しか録音できなかった。
大戸井弘記と喧嘩した翌日、赤いランプが点滅していた。
【録音 一件目】
「那江。君と別れて、初めて分かった。僕は――」
そこで音は切れた。
那江は受話器を置いた。
「君と別れて、初めて分かった。僕は楽になった」
続きはきっと、そういう言葉だと思った。
前夜、彼女は「もう疲れた」と言った。
弘記は「僕もだ」と答えた。
本当は二人とも、喧嘩に疲れたと言ったつもりだった。
相手との関係に疲れたのだと、互いに受け取った。
那江は父の看病のため、翌朝には仙台へ戻る予定だった。
弘記へ新しい電話番号を伝えず、アパートを引き払った。
録音の続きは、こうだった。
「僕は、君と話さない一日がこんなに長いと知らなかった。やり直したい」
機械が切れたあとも、弘記は受話器へ話し続けた。
終了音に気づいてかけ直したが、那江は電話線を外して荷造りをしていた。
二人はそのまま別れた。
十九年後、那江は母の家を片づけていて、古い留守番電話とカセットを見つけた。
父の見舞いへ持ってきた荷物の中に、間違って紛れたらしい。
再生すると、十八秒目の直前、弘記が息を吸う音が聞こえた。
楽になった人の息ではなかった。
その年の同窓会で、那江は弘記と再会した。
彼には妻と二人の息子がいた。
那江にも、長く連れ添った夫と娘がいる。
「昔の留守電、聞いたよ」
彼女が言う。
弘記はすぐに分かった。
「どこまで入ってた?」
「『僕は』まで」
「最悪だな」
「うん。最悪」
二人は笑った。
「本当は何て言ったの」
分かっていても、那江は訊いた。
弘記は答えた。
「君がいないと寂しい。戻ってきてほしい」
「十九年遅いね」
「十八秒よりは長い」
二人はしばらく黙った。
その沈黙は、昔のように相手へ意味を押しつけるものではなかった。
「幸せ?」
弘記が訊く。
「うん。弘記も?」
「うん」
答えは同じだった。
帰宅後、那江はカセットへ日付を書き、箱へ戻した。
録音されなかった言葉が届いても、今の人生を誤りにはできない。
ただ、あの別れが愛の終わりではなく、十八秒目へ入らなかった数語のせいだったことを、二人とも知れた。
それだけで、若い日の自分たちを少し許せた。