十年後の未開封
「二十七歳の私へ」と丸い字で書かれた封筒は、思ったより軽かった。
成人後初めての大きな同窓会で、担任が十年前のタイムカプセルを持ってきた。千鶴は封を切らず、窓際の席に置いた。銀行の事務服ではなく私服なのに、机の前に座ると背筋だけが高校生へ戻る。
周囲では悲鳴と笑い声が上がっていた。「結婚してる?」「夢かなってる?」。千鶴はどちらにも曖昧に笑った。
封筒の中身は覚えている。美術室で描いた青い鳥と、「絵の仕事をしていますか」という一文だ。
高校三年の秋、千鶴は美大を受けたいと言えずにいた。家計を知っていたからだ。窓際の席で進路希望票を折り、銀行員と書いた。その横で栞奈が、千鶴のスケッチブックを閉じながら言った。
「諦めるって決めた顔じゃないね」
腹が立って、卒業まで口をきかなかった。
十年後、千鶴は堅実に働き、奨学金もない。絵具は実家の押し入れで固まった。間違ってはいない。けれど、正しかった人生を説明するたび、誰かに採点されている気がした。
「開けないの?」
隣に座った栞奈は、今は子ども向け雑誌の編集をしているという。千鶴が首を振ると、それ以上勧めず、自分の封筒を破った。中から出たのは「宇宙飛行士になる」と書かれた紙で、二人は同時に吹き出した。
夢は、かなわなければ処分される契約書ではなかった。
千鶴も封を切った。予想どおりの青い鳥。その下に、忘れていた小さな字があった。
「仕事じゃなくても、まだ描いていたら合格」
教室の窓は夕焼けを映し、紙の鳥の青だけが浮いて見えた。過去の自分は、今の自分が思うほど厳しくなかった。
帰りの電車で、千鶴は週末のデッサン教室を検索した。入会金の数字を見て、家計アプリを開き、迷った末に申込欄へ名前を入れる。
銀行を辞める予定はない。夢を仕事にする予定も、まだない。
申込完了のメールには、青い鳥の絵文字を一つだけ添えた。
ただ、封筒の鳥を手帳に挟んだ。次の土曜日、その青を持って、十年ぶりに白い紙の前へ座る。