十息ぶんの夜

首縄を掛けられたフェリネは、処刑台の下にある影へ囁いた。

「契約する。十息で足りる」

悪魔グラウノが縄の影から目を開けた。

世界を止められるのは、彼女が吸って吐く十回のあいだだけ。その代わり、一息ごとに、人生で交わした約束を一つ忘れる。どの約束が消えるかは選べない。

鐘が振り下ろされる瞬間、フェリネは最初の息を吸った。

音が凍り、群衆の口が開いたまま止まる。彼女は縄を抜き、隣の台へ走った。無実の密偵タゼルも、首を吊られる寸前だった。

一息目。幼いころ母に誓った「嘘をつかない」が消えた。

二息目で、タゼルの縄を切る。剣を返すと誓った鍛冶師の顔がぼやけた。

三息目。処刑人の腰から鍵を奪う。死んだ友の墓へ毎年花を置く約束が消えた。

四息目で証拠箱を開く。領主が敵国へ送った密書が入っている。これを群衆へ見せれば、二人の罪は晴れる。

五息目。弟を一人にしないという約束。

六息目。タゼルと生きて北門を越える約束。

胸が痛んだ。約束の内容は消えても、失った形だけが穴として残る。

七息目で密書を鐘楼の綱へ結ぶ。時が戻れば、紙片が広場へ舞うようにした。

八息目。誰かへ「必ず帰る」と言った記憶が消えた。誰に言ったのか分からない。

九息目。自分だけは悪魔と契約しないと誓った夜が消えた。

残り一息。

タゼルを処刑台の外へ押し出すには届かない。フェリネは彼を抱え、最後の空気を肺へ入れた。

小さな手を握り、「朝までに戻る」と言った記憶が消えた。

彼女はその約束が最後だったことさえ知らず、タゼルとともに階段から跳んだ。

時間が動く。鐘が鳴り、空の縄が揺れた。密書が白い鳥の群れのように広場へ散り、領主の印章を見た群衆がどよめく。衛兵は処刑人ではなく領主を取り囲んだ。

タゼルは笑って、フェリネの肩を叩いた。

「北門へ行こう。君の娘も待っている」

「娘?」

彼女の首には、小さな木札が下がっていた。幼い字で《おかえり、かあさん》と彫られている。

読める。意味も分かる。だが、その言葉を自分へ向ける顔が一つも浮かばない。

グラウノは彼女の影へ戻り、満足げに言った。

「十息ぶんの夜で、二人の命を買った。帰る場所だけを置いてきたな」

処刑台から逃げた女は自由になった。しかし朝を迎えた彼女には、帰ると約束した自分がもう残っていなかった。