千円札とQRコード
祖母は、買い物へ行くたび財布から千円札を一枚だけ出した。
「電子決済なら小銭も出ないよ」
孫が教えても、首を振る。
「払った感じがしないものは怖い」
「残高は画面で見える」
「画面は電池が切れる」
孫には、ただ新しいものを嫌っているように見えた。
ある日、祖母が商店街の福引券を現金で買おうとして、店員から「電子決済のみです」と言われた。後ろに列ができ、祖母は恥ずかしそうに財布を閉じた。
孫はその場で自分の端末をかざした。
「こうするだけ」
「簡単すぎるのが怖いの」
帰宅後、祖母は家計簿を見せた。
一円単位で、何を買ったか、誰と食べたかまで書かれている。
「お金が減っただけじゃなく、暮らした跡が欲しい」
孫は初めて、祖母が現金そのものではなく、使った実感を大事にしていると知った。
二人で、低額専用の電子カードを作った。上限は五千円。使うたび、端末から紙の明細を小さなプリンターへ出す。
孫は暗証番号を他人へ教えないこと、知らない通知のリンクを開かないことを説明した。祖母は同じ数字を使おうとして叱られ、代わりに家計簿の表紙へ番号を書こうとして、もう一度叱られた。
「紙を出すなら電子の意味ないじゃん」
「私にはある」
祖母は明細を家計簿へ貼った。
次の買い物で、祖母は自分でQRコードを読み取った。支払い音が鳴ると、少し得意そうに孫を見た。
「できた」
「便利でしょ」
「まだ怖い」
「怖いまま使っていいよ」
数週間後、孫の端末が壊れた。交通用の電子券も表示できず、駅で立ち往生した。
祖母は財布から千円札を一枚出した。
「画面は電池が切れるでしょう」
「それ、ずっと言いたかった?」
「今日まで取っておいた」
二人は笑った。
その夜、家計簿には二つの記録が並んだ。
〈電子カード 八百四十円 孫と買い物〉
〈現金 千円 孫を駅から連れ帰る〉
新しいものを覚えることと、古いものを捨てることは同じではない。
二人の財布には、QRコードと千円札が、互いの弱点を補うように並んでいた。