午前二時の入室音
鳴海は、眠る前に「誰でも入れる」と書かれた音声ルームを開いた。
参加者は三人。話しているのは一人だけで、もう二人はマイクを切っている。画面には丸いアイコンが並ぶが、顔も年齢も分からない。
午前二時六分。部屋の常夜灯は黄色く、空気清浄機の羽根が低く回っていた。窓の外では小雨が排水管へ落ち、たん、たん、と間の長い音を出している。
配信者は、眠れない理由を尋ねなかった。今日買った柑橘の香りの洗剤が、思ったより甘かったという話をしていた。
鳴海はイヤホンを片耳だけにつけた。もう片方の耳には、自分の空調と雨がある。
話が途切れる。
配信者の向こうで、電気ケトルが沸き始めた。低いうなりが強くなり、かち、と止まる。湯を注ぐ音。そのあいだ誰も話さなかった。
すると、短い入室音が鳴った。
四人目のアイコンが現れ、すぐに「こんばんは」とだけコメントした。配信者も「こんばんは」と返す。鳴海も何か書こうとしたが、指は画面の上で止まった。
新しく来た人は、二分ほどで退室した。退室音は設定されていないため、アイコンだけが消えた。
誰だったのか、なぜ来て、なぜ去ったのかは分からない。けれど午前二時のどこかで、ケトルの音を聞き、「こんばんは」と言って帰った人がいる。
配信者はまた洗剤の話へ戻った。甘すぎる匂いは、乾けば少し薄くなるらしい。鳴海は今日、職場でほとんど声を出さなかった。画面越しの会議では名前を呼ばれず、買い物もセルフレジで済ませた。それでも自分まで存在しなかったわけではない、と入室音の一拍が教えるようだった。
三十分のタイマーが鳴り、音声ルームは閉じた。
鳴海は別の配信を探さなかった。イヤホンを外すと、空気清浄機が同じ速さで回っている。排水管の雨は、たん、たん、とまだ続いていた。
画面が暗くなったあとも、入室音の短い余韻だけは耳に残った。挨拶を交わさなくても、通り過ぎた人の時間と自分の時間が一度だけ重なったのだと思った。
誰にも「こんばんは」を返さなかった夜でも、眠る場所はここにある。鳴海は常夜灯を消し、暗さが目になじむまで静かに待った。