午前零時の供述
片瀬千景が勝沼忠の供述調書を開くと、作成時刻は午前零時ちょうどだった。
市道で自転車の大学生をはね、逃げた事件。勝沼は配送会社の運転手で、事故翌日に自首し、車も修理前の状態で押収されている。署内では解決済みの空気が漂っていた。
「この時刻に、誰へ話しましたか」
「名前は知らない。制服じゃない人」
「担当者名はここにある」
「その人は紙を読んだだけだ」
勝沼は疲れた顔で調書を指した。
「約束は守られるんだろうな。娘の治療費」
千景の指が止まった。自首した男が、捜査員との金の約束を口にした。
「誰が払うと?」
「質問するなと言われた。俺が運転していたと言えば、匿名の寄付が入る。それで終わりだ」
「本当は誰の車だった」
勝沼は答えず、壁時計を見た。口を割れば娘を失い、黙れば見知らぬ学生の死を背負う。その沈黙は脅しではなく、千景への取引だった。自分を救う正義なら要らない、と目が言っている。
端末の隅に、取調べ管理システムの保守通知が残っていた。事件当夜、二十三時五十分から零時二十分まで全端末停止。午前零時の調書はシステムから作成できない。しかも調書にある「当署規定に基づき」という表現は、一般人の口から出る言葉ではなかった。
千景は廊下へ出ず、庁内車両の運行表を開いた。事故時刻に同じ市道を通った車が一台ある。副署長公用車。翌朝、前部バンパー交換。修理理由は『駐車場内の接触』。
内線が鳴った。乾副署長だった。
「確認だけでいい。余計な事情は聴くな」
「娘さんへの寄付も、確認ですか」
数秒の無音の後、電話は切れた。
勝沼は青ざめた。
「やめろ。金が止まる」
「止めるのは私じゃない。約束で口を塞いだ人です」
千景は保守通知、運行表、修理伝票を一つの報告書に添付した。宛先に交通課長を入れず、県警監察と検察庁の二つを選ぶ。
勝沼は机の調書へ手を伸ばし、「署名は撤回しない。金だけは残してくれ」と頼んだ。千景はその手を止めなかった。彼の同意を残すことと、警察の取引を正当化することは別だった。乾の公用車を記した瞬間、自分の所属先はなくなる。それでも、買われた自白を事件の結論にはできない。
勝沼が娘の名をつぶやく中、千景は午前零時の調書を無効資料として登録した。