午後五時のデカフェ
永峰汐里がトリプルショットを頼んだのは、午後九時十五分だった。
「明日の朝までに企画書を直さないといけなくて」
バリスタの朝比奈周は、文字盤がいつも五時を指している銀の懐中時計を開いた。黒いエプロンの腰に下げ、注文を受けるたび確かめる。
「五時以降は、明日の仕事です」
「今は九時です」
「だから明日の仕事です」
周はエスプレッソではなく、デカフェの豆を量った。
汐里は慌てて止めた。明日、部署初の女性リーダーになるかを決める面談がある。今夜中に数字を整えなければ、任せられない人だと思われる。
「デカフェじゃ意味がありません」
「三日前も同じことを言いました」
周はカウンターに置かれた汐里の手帳を指した。月曜、午前二時。火曜、午前三時半。昨夜は時間の記録すらない。ページの端には、自分で書いた『もう深夜に決めない』という文字があった。
「秘密を見抜いた顔をしないでください」
「顔ではなく、筆圧を見ました。約束を破る人は、自分への字だけ濃い」
汐里は、昇進を断るべきか相談した。向いていないのかもしれない。仕事が遅いから、夜を使うしかない。そう言いながら、断れば悔しいとも思っていた。
周はデカフェを黒いカップへ注いだ。見た目も香りも、いつもの深煎りと変わらない。
「これは能力の相談ではありません」
「では?」
「条件の相談です。役職を受けることと、今の人数で全部背負うことを、同じ注文にしない」
周はレシートの裏へ三行書いた。
『役割は引き受けたい。深夜作業を前提にはしない。必要な人員と締切を相談したい。』
「そんなことを言ったら、生意気だと思われます」
「思わせておけばいい。眠っていない人の従順さを、有能さと呼ぶ店には長居しないことです」
言葉は冷たいのに、カップには手が熱くならないよう二重のスリーブが巻かれていた。
汐里は企画書を閉じ、面談で話す三行だけを手帳に写した。飲み終えると、周が懐中時計の竜頭を回す。
止まっていたはずの針が、五時から九時四十二分へ動いた。
「壊れてなかったんですか」
「壊れていません」
「では、なぜいつも五時に?」
周は小さな帳面に『永峰汐里 二百八十二分』と記した。
「ここで仕事をやめて帰った人から、返してもらった時間を預かっています」
冗談には見えなかった。汐里が店を出ると、時計の針はまた五時へ戻る。
扉の向こうで、周の声がした。
「五時以降は、あなたの時間です」