卵を入れない百二十個
江口小春は、退職届を調理台の下の鞄に入れたまま、卵不使用の小さなケーキを百二十個並べていた。
ホテルで開かれる子どもの交流会用だ。白いムースに杏のつやを塗り、黄色い旗を立てる。旗には〈EGG FREE〉。招待客の中には、卵に触れた器具でも症状が出る子がいると、注文書の最上段に赤く書かれていた。この納品を終えたら、三年間働いた製菓工房を辞めるつもりだった。
オーブンの熱と杏の甘酸っぱい匂いの中で、小春は旗の向きをそろえた。安全のための注文ほど、見た目まで完璧に仕上げる。それが彼女なりの、最後の仕事の終え方だった。
最後の箱へ入れる十二個を塗り終えたとき、小春は刷毛の毛先の硬さに気づいた。卵黄を塗る焼き菓子用と同じ、細い獣毛だった。専用器具は青い柄のシリコン製のはずだ。
「洗ったから平気だと思って。この十二個だけです」
洗い場の新人が青ざめた。忙しさに追われ、空いていた刷毛を取ったという。
工房長は時計を見た。
「触れたのは表面だけだ。そこだけはがして塗り直せばいい」
小春は黄色い旗をすべて抜き、十二個のトレーを離した。
「安心させる表示は、安全だった証拠があるときだけです。触れたものは、丸ごと出しません」
納品まで五十分。予備の未仕上げムースは十五個あった。小春は汚染の可能性がある十二個を廃棄箱へ移し、残り百八個を冷蔵庫へ戻した。新しい杏液を炊く役、専用器具を再洗浄する役、予備十二個を仕上げる役に分ける。新人には廃棄の責任者欄ではなく、専用器具の色分け表を作ってもらった。
「報告した人が罰を受けたら、次は誰も言わなくなるから」
小春はそう言い、刷毛を取り違えた時刻と対象の十二個を自分の名で記録した。
納品は七分遅れた。ホテル側へ経緯を説明すると、担当者は怒る代わりに、すべての旗の裏にロット番号を書いてほしいと言った。次回から追跡できるようにするためだった。
工房長は、廃棄した材料の原価表を小春へ押しつけた。
「止めたのは君だから、損失責任者に名前を書いて」
小春は自分の名を書き、その横へ〈原因・専用器具の共用を許す保管方法〉と追記した。報告した新人の名は書かなかった。安全を守る判断だけが損失として数えられる場所には残らない。
鞄から退職届を出して封筒を置き、スマートフォンで週末だけ借りられる共同厨房の契約画面を開く。
〈出店者名〉の欄に、自分の名前を入力した。