受賞作を送らない
二十三時五十四分、椿野理久の執筆アプリに金色の通知が現れた。
〈四十歳の君より。六分後、ファイル『空白』を新人賞へ送れ〉
締切まで六分。机には欠けた白いマグカップ、画面には書き出し一行だけの原稿がある。
――死者は、推敲のたびに若返った。
理久は通知に添付された本文を貼りつけ、二十三時五十九分に送信した。翌春の受賞画面が一瞬だけ開き、すぐに部屋が二十三時五十四分へ戻る。
〈ファイル『空白』を送れ〉
二度目は誤字を直した。三度目は題名を変えた。差分を加えるほど未来の評価は上がり、帯には「十年に一度の才能」「映像化決定」と文字が増えた。だが締切を越えるたび、欠けたマグカップの縁は元へ戻った。
十一回目、原稿の中に見覚えのある比喩を見つけた。
〈雨は、廊下を歩く無数の爪だった〉
大学時代、同人誌を一緒に作った雨坂澪の一文だ。彼女はデビュー前に亡くなり、未完成稿は理久の古い外付けディスクにだけ残った。未来の『空白』は、その未完成稿を並べ替え、理久の体験を数段落足した作品だった。
通知へ問い返す。
〈これは俺の小説か〉
〈受賞すれば君のものになる〉
同じ返事が二度届いた。
十三回目、理久は添付原稿を使わず、自力で書いた。間に合わない。十四回目は澪の名を共著者欄へ入れたが、応募規定で失格になり、時間が戻る。成功条件は受賞作を送ることではない。未来の作家・椿野理久を成立させることだった。
二十三時五十八分。理久は『空白』を開き、本文をすべて消した。残したのは一文だけ。
〈この作品は雨坂澪の未発表原稿を、椿野理久が自作として応募しようとした記録である〉
原稿、通知履歴、元データの比較表を添付し、新人賞ではなく出版社の編集部と同人仲間全員へ送る。未来の受賞歴が画面から消え、映像化の帯も、講演会の写真も白くなった。
〈送るな。何者にもなれなくなる〉
欠けたマグカップを握り、理久は返信した。
〈誰かのままでいるよりいい〉
二十三時五十九分、応募サイトの〈辞退〉を押す。零時になった。部屋は戻らない。
机には白紙の原稿と、澪から昔もらった欠けたマグカップだけが残った。理久は新規ファイルを作り、今度は通知のない一行目を打ち始めた。