名前一つ一秒
八千代スズは炎の通路を駆けながら、倒れた兵士へ叫んだ。
「エド!」
《音声タイムペナルティ》
固有名詞を一つ発声するたび、残り時間を一秒失います。
《残り:17秒→16秒》
速度攻略では名前を呼ばない。それが常識だった。仲間は番号で呼び、NPCは「そいつ」で済ませる。一秒を惜しむ世界では、名前は最も高価な言葉だった。
「三番、左へ!」
先頭の走者が叫ぶ。炎壁の向こうで、宿屋の娘が瓦礫に挟まれている。彼女の頭上には《救助対象:未登録》と出ていた。
スズは少女の名を思い出す。開始村で毎朝パンをくれた。
「ミルナ!」
《残り:12秒→11秒》
《対象名を登録》
名前を呼ぶと、少女の輪郭が青くなり、パーティの転送対象へ加わった。時間を失う代わりに、その人が「誰か」として世界へ記録される。
スズは走りながら名を呼んだ。鍛冶屋のボル。門番のサージ。薬師のネリア。残り時間が一秒ずつ消えるたび、炎の中の影へ名前が戻る。
ゴール前、残り一秒。
最後に倒れているのは、いつも「案内役」としか表示されなかった少年NPCだ。名札は焼けて読めない。
「僕には、名前がありません」
スズは立ち止まった。
「じゃあ、今決めよう」
少年は目を見開き、自分で「ルート」と名乗った。
《残り:0秒》
ゴールへ届かず、スズの画面は暗転する。世界記録は失敗。だが暗闇の中で、呼んだ名前が一つずつ灯り、全員の姿を形作った。
《タイムアタック失敗》
《固有名登録数:十八》
暗闇でルートがスズの手を握った。
「僕が名乗ったせいで、あなたの一秒がなくなりました」
「一秒で名前を買えたなら安いよ」
呼ばれた者たちは、炎の街では背景として何度消えても復元されていた。だが名前を登録された今、死亡すれば履歴が残り、救助対象にもなれる。痛みも死も増える代わりに、誰にも数えられない存在ではなくなった。
最後に、十八人がスズの名を呼ぶ。一人一秒の規則は逆向きには働かない。それでも声は暗闇の外へ届き、彼女の輪郭を作り直した。
《消滅予定データの人物化を完了――失った十八秒は、十八人を背景から住民へ戻すために使用されました》