名字をやめる午後

「会社では名字で呼ぶ。余計な誤解を招かないために」

藤代啓介が課長になった日、小宮山祈里へ最初に言った言葉だった。

それまでは同じプロジェクトの同期で、残業帰りには互いを名前で呼んでいた。けれど直属の上司と部下になってから、藤代は一度も「祈里」と言わなかった。祈里も「啓介」と呼ばなくなった。

距離を置くのは正しい。正しいからこそ、二年も続くと苦しかった。

四月一日、祈里は別事業部へ異動する。発令が有効になる午後五時半、二人は小会議室で最後の引き継ぎをしていた。

「小宮山さん、未処理は?」

「ありません」

「権限移管は?」

「確認済みです」

「困ったことがあれば、次の上司に」

「藤代課長には相談しないほうがいいですか」

思わず漏れた言葉に、彼の指が止まった。机には二年前から使っている青いペン。祈里が同期祝いに贈ったものだった。課長になってからも、彼は毎日それを使っていた。

「上司としては、今日で終わる」

「では、何としてなら相談していいんですか」

藤代は答えず、壁の時計を見た。五時二十九分。たった一分が、長かった。

社内ポータルが更新される音が鳴る。組織図から祈里の名前が消え、新しい部署の欄へ移った。藤代は画面を確認すると、ノートパソコンを閉じた。課長の顔をしていた人が、静かに息を吐く。

「祈里」

二年ぶりの呼び方は、記憶より低く、近かった。

彼は青いペンを胸ポケットへ戻し、代わりに一枚のカードを差し出した。日曜の夕方、二名で予約されたレストランのカード。祈里は受け取る前に、彼の手首をつかんだ。

「これは業務命令ですか」

「違う。断られたら、普通に傷つくほうの頼みだ」

告白ではなかった。けれど藤代は、彼女が離すまで動かないつもりらしい。祈里も離すつもりがなかった。

二人で会議室を出る。廊下ではまだ社員たちが行き交っている。藤代はいつもの慎重さで半歩離れたが、エレベーターが一階に着き、入館ゲートを抜けたところで、その手を差し出した。

祈里は指を絡める。

「会社では名字で呼ぶ、でしたよね」

「今はもう、会社の外だ」

春の風の中で、彼はもう一度、祈里と呼んだ。

名字をやめただけなのに、二人はようやく、上司と部下ではない場所へ立っていた。