味噌を塗らない角

早瀬椿は、結婚式場への申込金を振り込む前に、祖母の柚子味噌田楽を作った。

実家の旅館は去年から赤字で、婚約者の家は取引先だった。誰も結婚を条件にしてはいない。それでも両家が喜ぶ顔を見るたび、断れば旅館まで沈める気がした。

婚約者は優しい。優しいからこそ、椿は一度も「待って」と言えなかった。衣装も招待客も、似合うと言われたものへうなずいた。彼はその返事を信じ、楽しそうに席次表を作っている。傷つけないための沈黙が、日ごと彼を欺く形になっていた。今夜零時を過ぎれば、申込金は戻らない。

祖母のレシピ帳には、豆腐一丁に対する味噌の量が細かく書かれている。最後に赤鉛筆で、〈右上の角だけ塗らない〉とあった。子ども用かと思っていたが、頁の裏に古い注文票が貼られている。〈味の濃いものが苦手〉と書いた客へ、祖母が同じ田楽を出した日のものだった。選べる場所を、皿の上に残していたらしい。

椿は一人分の豆腐を焼き、艶のある味噌を広げた。右上だけ、白い三角を残す。柚子の香りが湯気に混じり、表面の味噌は舌へねっとり触れた。中の豆腐は熱く、噛まなくてもほどける。

味噌の濃い中央から食べた。予定表を見ながら、四隅を一つずつ減らしていく。

最後に、塗らなかった角だけが残った。

味がないのではなく、豆腐の味がした。椿はそれを半分だけかじり、皿へ戻した。

スマートフォンには、婚約者から〈振込、僕がやろうか〉と届いている。

椿は通話ボタンを押しかけて、やめた。声を聞けば、また相手を困らせない返事を選ぶ。

代わりに、食べかけの白い角を撮った。祖母のレシピ帳も画面へ入れる。

〈今夜は振り込まない。あなたが嫌いだからじゃない。私が一度も、自分で決めていなかったから〉

短く打って送った。

すぐに既読がついたが、返信は待たなかった。残した角へ柚子味噌を足すこともせず、皿ごと冷蔵庫へ入れる。

明日、彼と食べるか、一人で捨てるかは分からない。

けれど祖母が空けておいた一角に、椿は初めて自分の返事を置いた。