味噌を足す

母の味噌汁は、今日も薄かった。

「塩分は控えないと。里帆はむくみやすいんだから」

実家の食卓には、焼き鮭、ひじき、ほうれん草のおひたしが一人分ずつ同じ量で並んでいる。里帆の茶碗だけ、ご飯が半分だった。母は二十七歳の娘の皿を見渡し、献立表に丸を付けるようにうなずいた。

「いただきます」

里帆は味噌汁をひと口飲んだ。湯気は温かいのに、舌にはほとんど何も残らない。

「来月から、在宅勤務をやめることにした」

「だめよ。通勤したら疲れるでしょう」

「会社の近くへ引っ越す」

「そんなの聞いてない」

「今、言った」

「里帆は一人で決めると失敗するの。部屋は私が見に行って――」

母は箸を置いた。鮭の皮が皿の上で光っている。

里帆は立ち上がり、台所へ向かった。戸棚の奥から味噌の容器を出す。背後で母が「何をしてるの」と言った。

お玉に少しだけ汁を取り、味噌を溶く。子どものころ、鍋に勝手に調味料を入れると手を叩かれた。だから今日は鍋ではなく、自分の椀にだけ足した。

「濃すぎるわよ」

「私のだから」

「体のことを考えて言ってるの」

「考えてくれてありがとう。でも、私の体は私が使う」

味噌を溶いた部分が、椀の中で小さな雲のように広がった。もう一口飲むと、塩気の奥に大豆の甘さがあった。

母はしばらく黙り、自分の味噌汁を飲んだ。それから里帆の茶碗へ伸ばしかけた手を止めた。ご飯を足そうとしたのか、減らそうとしたのかは分からない。

「引っ越しの日は?」

「来月の十二日」

「手伝いに行く」

「来なくていい」

「でも――」

「翌週、近所の店でお昼を食べよう。新しい家には呼ばない」

母の口元が硬くなった。里帆はその表情を直そうとしなかった。怒らせないことを優しさだと思うのを、今日でやめる。

食卓の真ん中に、味噌の容器を置いた。

母は長いあいだ見つめてから、ほんの少しだけ自分の椀へ溶き入れた。

「濃いわね」

「うん」

「でも、まずくはない」

それは謝罪ではなかった。許しでもなかった。ただ、同じ鍋からよそった味噌汁を、それぞれ別の味で飲めるというだけだった。

里帆は残っていたご飯を自分で一口分よそい、茶碗を満たした。