呼ばれなくなる名
ダーナは婚礼の朝、白い靴のまま裏通りを走った。
父が決めた相手の屋敷へ行けば、帳簿を読む仕事も、夜更けに詩を書く時間もなくなる。婚約者は昨夜、彼女の書き机を運び出させ、「妻に自分の鍵は要らない」と笑った。
ダーナは三年前から少しずつ銀貨を貯め、港町の商会で帳簿係として働く約束まで取りつけていた。逃げる道も、乗る馬車もある。ただ、家の紋章と結びついた名だけが、どこまでも追ってくる。家名から切り離された新しい名前が必要だった。
「名前を売る店」は、まだ朝靄の中にあった。
「新しい名をください」
店主は白紙の札を一枚出した。
「新しい名前の代金は、古い名前で呼ばれた記憶のすべて」
ダーナは息を止めた。
父に叱られた声だけではない。亡くなった母が熱を出した彼女の額を撫でながら、「ダーナ、ここにいるよ」と囁いた夜も消える。寄宿舎の友人が窓の下から名を呼び、抜け出して星を見た夜も。初めて帳簿の間違いを見つけ、老店主に褒められた午後も。
嫌いな家から逃げるために、好きだった声まで差し出さなければならない。
鏡を見ると、泥のついた白い靴と、母の形見の青い外套が映った。婚礼衣装のまま逃げたのに、外套だけは忘れなかった。母が縫った襟裏には、小さく古い名が刺繍されている。代金を払えば、その文字を見ても自分のものだと思えなくなるのだろう。
外で鐘が鳴った。婚礼の使者が彼女を捜し始める時刻だった。
「名前だけ忘れて、出来事は残せませんか」
「呼ばれた瞬間ごと消える。それが名前の重さだから」
店主は札と針を並べた。針で指を刺し、古い名を血で書けば取引は終わる。
ダーナは母の声をもう一度だけ思い出した。ここにいるよ。その言葉に守られ、今日まで来た。ならば、これからは自分で自分に言えばいい。
針を取る。
白紙へ「ダーナ」と書いた途端、母の唇が動いただけの無音になった。友人の呼び声も、褒められた日の笑顔も、頁を破るように抜け落ちた。
白い札には、新しい名を書く余白が残った。
店主が訊く。
「お名前は?」
胸の奥は穴だらけだった。それでも、扉の外へ向く足は軽い。
彼女は札を握りしめた。
「これから決めます」