四階までの母音

伊都は一日に何度「すみません」と言うのか、自分でも知らなかった。エレベーターを待たせてすみません、廊下ですれ違ってすみません、会議で発言してすみません。言っておけば角が立たない、便利な薄い毛布のような言葉だった。電話を取るときも、資料を渡すときも、最初の一音はいつも「す」だった。毛布の下では、断りたいことも、嬉しかったことも同じ温度になった。

隣室のミンは、ベトナムから来た音声技術者で、建物の案内放送を録音する仕事をしていた。ある朝、彼が閉まりかけた扉を押さえてくれたので、伊都はいつものように「すみません」と滑り込んだ。

ミンは四階のボタンを押しながら聞いた。

「その言葉のどこに、伊都さんがいますか?」

「え?」

「音はきれい。でも、毎回おなじ顔になります」

伊都が困っていると、彼はポケットから四つ折りの紙を渡した。開くと、ひらがなの「あ・い・う・え・お」だけが縦に書かれている。

「明日の朝、一階から四階まで、『すみません』禁止。母音はどれでも使っていいです」

ゲームの説明のように言い、四階で降りた。

翌朝、伊都はその紙を社員証に挟んだ。エントランスで管理人が宅配箱をどけてくれ、口が反射的に「す」の形になる。

「あ……ありがとうございます」

言い直した声は妙に大きかった。管理人が少し驚き、それから笑った。

エレベーターにはベビーカーを押した女性がいた。伊都が「開く」ボタンを押すと、女性が「助かります」と頭を下げる。今度は謝る必要がなかった。

三階で同じ部署の先輩が乗り込み、昨日頼んだ資料を今朝までに直せるかと聞いた。伊都の喉に、便利な毛布が戻ってきた。すみません、すぐやります、と言えば簡単だった。

社員証の裏で、五つの母音が指に触れた。

「いまの作業が終わる十一時なら、できます」

扉が四階で開く。先輩は一拍置いて「じゃあ十一時で」と言った。

伊都は降りる前に振り返った。隣でミンが何も言わず、親指だけで「あ」の字をなぞっていた。伊都は謝らずに、まっすぐ廊下へ出た。