壁の向こうの青
北見史帆が内装工事の現場へ着くと、子ども部屋の壁が深い青に塗られ始めていた。
施主が選んだのは、朝の空に近い薄い青灰色だったはずだ。後輩が発注書へ入力した色番号は、末尾の六と九が逆になっている。届いた塗料は同じシリーズの濃紺で、すでに壁一面の三分の一が覆われていた。
翌日は家具の搬入日。塗り直せば乾燥が間に合わない。現場監督は「照明が入れば落ち着いて見える。施主には色幅の範囲と説明しよう」と言った。
史帆は窓の養生を一部だけ外した。午後の自然光が入ると、濃紺はさらに重くなった。部屋を使うのは、春から小学校へ通う女の子だ。打ち合わせ記録には〈暗い部屋を怖がるため、明るく〉とある。
「色幅ではありません。別の色です」
史帆は作業を止め、残りの部屋へ塗料が回る前に缶を隔離した。薄い色の在庫を近隣倉庫で探すと、必要量の半分しかない。そこで、濃紺をすべて剥がすのではなく、収納側の一面だけをアクセントとして残し、窓側三面を指定色へ戻す案を描いた。乾燥時間を確保するため、家具搬入も部屋ごとに順番を組み替えた。
後輩は発注書を握りしめた。
「私の入力で、家を変えてしまいました」
「家はまだ変え直せる。番号を責めるより、見本と発注書が別々に進む手順を止めよう」
史帆は色番号だけでなく、色名と見本写真を発注時に添付し、受入れ時は缶のふたへ実際の色を一滴塗って確認する工程を追加した。
夕方、施主へ現状と修正案を説明した。母親は濃紺の一面を見て、娘が星のシールを貼りたがっていたことを思い出し、その案を選んだ。帰宅した娘は壁を見上げ、「夜の場所も一つなら好き」と言った。ただし、史帆は偶然うまく収まったことを成功とは書かなかった。塗り直し費用と発注ミスを、変更記録へそのまま残した。
事務所へ戻ると、設計部への異動願いと、現場監理担当の募集通知が同じ机にあった。史帆は図面だけで完結する席ではなく、実物を止められる席を選んだ。
修正版を提出したあと、現場監理担当への希望欄に署名した。