壊れない宿の休業日
セルジュは、王都急便で十二年働いた。肩章のほつれた赤い制服には、雨と馬の汗が染みついている。
「一番速い男」と呼ばれたが、その意味は、誰かが遅れればセルジュが休みを捨てる、ということだった。
彼が隠居先に選んだのは、街道から一本外れた古宿〈居眠り鹿〉だ。客室は四つ。柱は傾き、廊下には荷車ほど大きな穴が開いていた。
初日に大工を探そうとしたところ、宿の真鍮鍵が勝手に跳ねた。穴の周囲から木の芽が伸び、板へ変わり、半刻で廊下を塞いだ。夜には破れた寝具がふくらみ、欠けた陶器まで元の形へ戻った。
宿は客が出るたび、自分で掃除し、自分で傷を直す。無人受付の鹿像が鍵を渡し、宿代を受け取る。セルジュに届くのは、一日一度の穏やかな鐘だけだ。
《本日の四室、決済完了。明日も働かなくてよい残高です》
その妙に率直な文面を眺めていると、急便社の通信鳥が窓へ突っ込んできた。ガラスが砕ける。
『北便が欠員だ。夕刻までに王都へ戻れ。特別手当を出す』
鳥は続けて、未読の緊急札を九枚吐いた。
セルジュは返事を書く前に窓を見た。床へ落ちた破片が逆さの雨のように舞い上がり、枠へ収まり、ひびが消える。宿は壊れたものを責めない。ただ、黙って元へ戻す。
《戻らない。代わりの人員を雇ってくれ》
『お前が走れば済む話だ』
《俺が走らないと済まない会社なら、先に会社を直せ》
通信鳥を外へ出すと、鹿像が前脚で休業札を掲げた。客室はすべて自動受付に切り替わっている。
二階から旅商人が降りてきて、鹿像へ鍵を返した。「椅子を壊してしまった」と申し訳なさそうに言う。客室を覗くと、折れた脚は木の芽でつながり、すでに乾いていた。鹿像は追加料金を求めず、通常の宿代だけを受け取る。旅商人は安心して出発した。セルジュは追いかけて荷を持とうとしかけたが、思い直して手を振るだけにした。見送ることまで仕事にしなくていい。
セルジュは赤い制服を丸め、廊下の猫用籠へ入れた。猫は迷惑そうに一度だけ鳴き、その上で丸くなる。
彼も隣の長椅子へ寝転び、毛布を顎まで引き上げた。まだ昼前だったが、今日は誰より速く眠りについた。