夜の翅が覚えた手

わたしは夜の蛾だ。

明るいものへ飛ぶ。なぜかは知らない。月に似たものを見つけると、翅がそちらへ向く。

その夜、わたしは二十四時間営業のコインランドリーへ入った。

白い灯りが天井に並び、どれも月より近かった。わたしは一つへ飛び、透明な覆いへぶつかった。落ちても、また飛んだ。

下では、一人の女が洗濯物を畳んでいた。

白い制服、薄い靴下、小さなタオル。女の肩からは、薬と雨の匂いがした。

わたしが灯りへ当たるたび、女は顔を上げた。

最初は手で追った。

わたしは逃げ、もっと高く飛んだ。

女はため息をついた。

「外へ出したいだけなのに」

人間の「だけ」は、たいてい虫には伝わらない。

女は洗濯物を置き、紙コップと一枚の葉書を持ってきた。わたしが壁へ止まるまで待った。

急がなかった。

コップが近づいたとき、わたしはまた飛んだ。

二度目も逃げた。

三度目、翅が疲れ、壁から動けなかった。

女はわたしへ触れず、上からコップをかぶせた。葉書を壁との間へ差し込む。小さな暗闇ができた。

「怖いよね。私も帰るの、少し怖い」

その声だけが、紙を震わせた。

女は自動ドアを出て、雨の止んだ植え込みまで歩いた。コップを横へ倒し、葉書を抜く。

すぐには飛べなかった。

外は暗く、灯りは遠く、風があった。濡れた葉の匂いがした。

女は待っていた。

「帰る場所が分からなくても、とりあえず外へ出ればいいか」

わたしは這い出し、葉へ移った。少し休み、翅を開いた。

女の制服の胸には、病院の名札があった。彼女は仕事を終えても家へ帰らず、毎晩ここで時間をつぶしていた。空になった部屋へ戻るのが嫌だったのかもしれない。

わたしには、人間の悲しみは分からない。

ただ、わたしが飛び立ったあと、女がスマートフォンを出したのを見た。

〈今から帰る〉

短い文字を送り、洗濯籠を抱えて歩き出した。

わたしは救われたとは思わない。

ただ、ガラスの向こうに見えていた夜へ、穴が一つ開いた。

人間も同じなのかもしれない。

誰かが出口を作り、急かさず待つと、疲れた翅でも、もう一度暗い空を選べる。