夢を預ける欄は空白

銀色の万年筆が、契約書の上でくるりと回った。

「夢を叶えたいなら、ここにサインして」

芸能事務所の統括、御門俊吾は前の人生と同じ笑顔だった。

シンガーソングライターの琴葉は、その万年筆で専属契約に署名した。半年後、彼女の曲は人気歌手の新曲として発売され、作詞作曲欄には御門の名が載った。抗議すれば違約金三億円。最後は盗作した側として告発され、歌う場所も名前も失った。

屋上から街を見下ろした夜の次に目を開けると、二十歳の手が銀の万年筆を握っていた。

机の向こうには、まだ何も奪っていない顔をした御門がいる。

琴葉は契約書を最後までめくった。第十九条。《契約期間中および締結以前に制作された著作物の一切を事務所へ無償譲渡する》

前回、彼は「形式だけ」と笑った。

今回も同じように笑う。

「難しい文は気にしなくていい。僕を信じて」

「信じません。署名もしません」

万年筆を卓上へ戻すと、御門の笑顔が固まった。

「君一人で売れると思うのか?」

「少なくとも、私の曲をあなたの名義で売るよりはましです」

「何を根拠に――」

「来月発売予定の『透明な朝』。二番の歌詞だけ、私のデモと違いますよね」

御門は反射的に言い返した。

「あれは商品用に俺が直したんだ。権利は契約後に移るんだから問題ない」

部屋が静まり返る。

銀の万年筆は、契約説明を保存するための録音機能付きだった。前の人生では琴葉の「分かりました」だけを切り取り、同意の証拠に使われた品だ。

琴葉が軸の小さなランプを示すと、御門は万年筆を奪おうとした。だが隣席の契約管理官が先に押さえた。

「未契約者の楽曲を、すでに商品化しているのですか」

「違う、今のは仮の話だ!」

管理官が端末で曲名を照会する。画面には、御門名義で提出された発売申請と、三年前に琴葉が投稿した原曲データの時刻が並んだ。

《著作者詐称の疑い――申請凍結》

赤い表示が御門側にだけ出る。

前の人生では十八時ちょうど、琴葉の端末へ《専属契約成立》の通知が届いた。

時計の針が重なる。

通知音は鳴った。けれど表示されたのは、初めて見る文面だった。

《原著作者・琴葉様へ。権利保全手続きが完了しました》

夢を預ける欄は、最後まで空白のままだった。