奥行きの足りない押入れ
吹雪の夜、古志野遼平が旅館の角部屋から消えた。
古志野は古い温泉宿を買収しようとしていた建築士だった。夕食後、宿主の出雲路志津江、仲居の安積逸美、共同経営者の唐木田壮介と口論し、二階の「山吹」に籠もった。唐木田が廊下で見張り、安積は階段下、出雲路は帳場にいた。
午後十時、唐木田が扉越しに呼んでも返事がない。合鍵で開けると、室内には古志野の上着と書類だけがあった。窓の外は降り積もったばかりの雪で、足跡は一つもない。扉以外の開口部は、指二本ほどの欄間だけだった。
「この宿に抜け道なんてありません」と出雲路は言った。
私は山吹の隣にあるリネン室も見せてもらった。
山吹は大正期の客室で、柱も長押も煤けたまま残されていた。増改築を繰り返した宿では、図面より現物が正しい。私は窓から外壁までの距離を見て、廊下でも歩幅を数えた。古志野自身が建築士だったことも、この部屋を選んだ理由に思えた。
解答に要るのは三点だった。
一つ。外壁から廊下までの奥行きは五・六メートルあるのに、室内と通常の壁厚を足しても五・一メートルしかなかった。
二つ。押入れ奥の杉板には、周囲だけ埃が積もり、中央に人の肩幅ほどの拭われた長方形があった。
三つ。リネン室で落とした鍵束の音が、厚い壁越しとは思えないほど、押入れの中へ鮮明に響いた。
安積が唇を噛んだ。「昔、女中用の通路があったと聞いたことは……」
出雲路は首を振ったが、唐木田だけが押入れを見なかった。
私は杉板の下端を持ち上げた。板は壁ではなく、上の溝に吊られた引き戸だった。奥には幅五十センチの空洞があり、リネン室の棚裏へ続いている。古志野はそこを通り、安積が階段下へ行った隙に従業員口から出た。雪のない庇下を伝えば、別棟へ移れる。
奥行きの不足、拭われた埃、通りすぎる音。三つは同じ五十センチを指していた。
私は唐木田に向き直った。
「改修図面を持っていたあなたなら、この通路を知っていた。山吹は密室ではなく、奥行きを半メートル隠した二扉の部屋です」