婿は一晩だけ
山間の旅館〈薄霞荘〉へ泊まった檜皮悠利は、女将から突然頼まれた。
「今夜だけ、娘の婿のふりをしてください」
「なぜ私が」
「予約帳に職業が“会社員・礼儀正しい”と」
「それだけで婿候補に?」
「本物の婿が渋滞で遅れています。祖父が今夜、結婚の挨拶を楽しみにしているんです」
悠利は断りきれず、娘の巴澄と座敷へ通された。
祖父は鋭い目で尋ねる。
「娘のどこに惚れた」
悠利は巴澄を見る。
「ええと、落ち着いたところです」
巴澄が小声で言う。
「会って七分です」
「七分で本質を見た」
祖父がうなる。
「仕事は」
「食品会社です」
「旅館を継げるか」
「聞いていません」
女将が背後で指を立てる。一本ではなく、頑張れの意味らしい。
祖父は酒を注ぐ。
「子どもは何人ほしい」
悠利がむせる。
「今夜だけの予定です」
座敷が静まる。
巴澄が肘で突く。
「設定を言わないで」
悠利は慌てる。
「今夜だけ、というのは、今夜だけ考えるには重い話で」
祖父が笑う。
「慎重な男だ」
会話は進むほど危険になった。
「呼び方は?」
「巴澄さん」
「二人きりでも?」
「二人きりになったことがありません」
「純情だな」
「事実です」
「初めて会った日は?」
「今日」
巴澄が大声で咳をした。
悠利は続ける。
「今日という日を、一生忘れないという意味です」
祖父は涙ぐんだ。
「名言だ」
その時、本物の婚約者が到着した。
「遅くなりました!」
祖父は二人の男を見比べる。
「婿が二人?」
女将が説明しようとすると、悠利は先に頭を下げた。
「私は渋滞対策用の婿です」
「道路工事みたいに言わないで」と巴澄。
本物の婚約者は事情を知って笑った。
「助かりました。祖父さん、僕が本物です」
祖父は悠利へ尋ねる。
「では君は誰だ」
「三〇五号室の宿泊客です」
「子どもの人数まで答えた宿泊客があるか」
翌朝、祖父は悠利を朝食の席へ呼び、味噌汁をよそった。
「本物より受け答えが面白かった。また来い」
「次は客としてお願いします」
「孫娘はもういないぞ」
「婿としても来ません」
翌朝、悠利の宿泊代は無料になった。
領収書の但し書きには、〈臨時婿役代〉とあった。