字幕の最後の一行
鷹司野恭介は、海外ドラマを見るたび妻へ命じた。
「英語が分かるなら今の台詞を訳せ。専業主婦にも一つくらい役に立つことがあるだろ」
立花井瑞葉が自然な日本語へ直すと、恭介は公式字幕のほうが正しいと笑った。
「資格があっても金を稼がなきゃ趣味だ。誰のおかげで食えてるんだ」
瑞葉は黙ってノートパソコンを閉じた。
数か月後、恭介の広告会社は海外配信サービスの日本参入案件を獲得した。社内試写会で、新作ドラマの字幕監修者が紹介される。
「翻訳スタジオ〈リーヴス〉代表、立花井瑞葉さんです」
瑞葉は結婚前から匿名で字幕翻訳を続け、出産後は在宅チームを組んでいた。文化差を損なわず、聴覚障害者にも分かりやすい字幕設計が評価され、配信会社の日本語作品を一括受注したのだ。契約は三年、総額四億円。
恭介は同僚へ慌てて言った。
「妻なので、僕が語感をチェックしていました」
試写室に、二人の自宅会話が流れた。作品資料の確認用に瑞葉が録音していたものではない。恭介自身がスマートスピーカーへ残した音声メモだった。
『こんな台詞も訳せないのか』
『家にいるだけの人間が仕事を語るな』
配信会社の責任者は表情を硬くした。恭介は、妻から聞いた未公開作品の内容を広告企画へ流用していたことも判明し、案件担当から外された。
帰宅すると、机の上に離婚届と瑞葉の新事務所の鍵があった。
「君一人で四億の仕事を回せるわけがない」
「一人じゃない。私が育てた翻訳者が二十六人いる。家で話す相手があなたしかいなかったころとは違う」
瑞葉は、自分の役員報酬、子どもの保育契約、新居の賃貸契約を見せた。すべて支払い済みだった。
恭介は画面の字幕を指した。
「俺を悪者に仕立てる気か」
瑞葉は最終話の最後の一行を入力する。
〈ここからは、自分の言葉で生きていく〉
配信会社から納品承認が届き、瑞葉が署名済みの離婚届を差し出した瞬間、恭介が趣味と呼んだ言葉は四億円の仕事となり、彼との物語だけが字幕どおり終了した。