富士山の下の昼風呂
藍原淳之介は、土曜の午後に銭湯へ行くことを、少し贅沢だと思っている。
夜なら一日の汚れを落とす用事になる。昼風呂は、まだ使える時間を湯へ溶かす行為だからだ。
定年を二年後に控えた淳之介は、休日にも早く目が覚める。
洗車をし、郵便物を整理し、昼食を作る。午後一時には、やるべきことがなくなる。それでも椅子へ座ると怠けている気がして、意味もなく家の中を歩いた。
その日、商店街の銭湯「松の湯」に〈土曜は正午開店〉と貼られているのを見つけた。
暖簾をくぐると、脱衣所には三人だけ。籠を選び、服を畳む。急ぐ理由はないのに、いつもの癖で手早く済ませた。
浴室の壁には大きな富士山が描かれていた。
青い空、白い頂、手前に松林。湯気で少し霞み、本物より遠く見える。
淳之介は熱めの湯へ足を入れ、肩まで沈んだ。時計はない。窓の高いところから、冬の光が細く差していた。
最初は何分入ったか気になった。
のぼせる前に出る。水分を取る。帰りに買い物をする。頭の中で次の手順を並べる。
けれど湯の中で指を開くと、掌の皺へ小さな泡がついた。泡が一つずつ消えるのを見ているうち、予定も少しずつほどけた。
風呂上がり、瓶の珈琲牛乳を買った。
腰へ手を当てて飲むほどの勢いはなく、休憩所の木の椅子へ座る。冷たい甘さが喉を通り、石鹸と湯気の匂いに珈琲が混じった。
テレビでは相撲の再放送が流れていたが、音は小さかった。
番台の主人が、濡れた暖簾を外へ干した。
「今日は空いてますね」
淳之介が言うと、主人は笑った。
「昼に風呂へ来られる人は、案外忙しいんですよ。暇だと思われたくなくて」
淳之介は瓶を見つめ、それから自分も笑った。
帰り道、予定していた買い物はやめた。
家には夕飯の材料がある。急いで埋めなくてよい午後もある。
冷たい風が火照った頬へ気持ちよく、首元から石鹸の清い香りが上がった。家へ着いても体の芯には湯の温度が残り、淳之介は何も始めず、窓辺の椅子へゆっくり座った。