届かなかった脅迫状
春の大夜会で、マーヴェナ・クロイツは悪役にされた。
「この手紙を見ろ!」
王弟ディオルクが掲げたのは、男爵令嬢ペトラナ宛ての脅迫状だった。
――殿下へ近づけば、家族ごと北塔へ送る。
「筆跡も封蝋も君のものだ。これほど卑劣な女を妻にはできない。婚約を破棄する」
ペトラナは震えながら、彼の腕にすがる。
マーヴェナは手紙へ近づかなかった。
「その手紙が書かれた日時は?」
「昨夜十一時だ。ペトラナの部屋へ差し込まれた」
「では、証明は簡単です」
彼女の言葉に応じて、一人の男が柱の陰から現れた。王家の文書監察官エルガン。夜会には似合わない灰色の外套を着たまま、透明な薄板を手紙へかざす。
薄板の名は《墨時計》。羊皮紙に染みたインクが、乾いた瞬間を日付として浮かべる鑑定具だ。
青白い数字が現れた。
三月十四日、午後二時。
筆者魔力、ペトラナ本人。
今夜は三月十四日。手紙が差し込まれたとされる昨夜十一時より、十五時間もあとである。
「この手紙は本日午後、受取人自身の手で書かれた」とエルガンが言う。「昨夜の部屋へ届くことはできません。時刻まで作り話にしてしまったようですな」
ペトラナの指が、ディオルクの袖から滑り落ちた。
「違うの。殿下が、これなら誰も疑わないと」
「余計なことを言うな!」
怒鳴り声が天井へ跳ね返る。
マーヴェナは胸の痛みを数える代わりに、息を一つ吐いた。十年間、彼の短気を「率直さ」と呼び、疑い深さを「慎重さ」と言い換えてきた。もう翻訳する必要はない。
「マーヴェナ、騙されたのだ。手紙が偽物なら、婚約破棄も無効だ」
「いいえ。殿下の宣言は、たしかに今夜、わたくしへ届きました」
エルガンが墨時計をしまい、手を差し出す。
「監察局へ来ませんか。あなたが以前見抜いた偽造遺言も、私は忘れていない。届いた文書より、届かなかった時刻を読む者が要る」
王弟の婚約者より地味な席だ。だが、誰の言葉も飾らず読める。
マーヴェナはディオルクに背を向け、エルガンの手を取った。