屋上の白い洗濯物
安西菜都が住む団地では、住人同士の会話はエレベーターの挨拶くらいだった。
五階の老夫婦の白猫、綿雪がいなくなるまでは。
夕方、掲示板に手書きの紙が貼られた。
〈白い猫。青い首輪。人見知りです〉
菜都は帰宅したばかりで疲れていたが、紙の隅に震えた字で〈十一歳〉とあるのを見て、懐中電灯を取りに戻った。
団地のグループチャットが初めて役に立った。
一階の親子は植え込み、二階の学生は駐輪場、三階の夫婦は物置を担当した。普段は騒音のことで揉めがちな住人まで、「白なら夜は見つけにくい」と反射材を配った。
菜都は階段を上りながら、各階の匂いを初めて意識した。カレー、柔軟剤、線香、焼いた魚。
屋上の扉は閉まっていた。
けれど六階の廊下に、白い毛が一本ついている。管理人に鍵を開けてもらうと、夜風が洗濯物を大きく揺らした。
「綿雪」
呼んでも返事はない。
白いシーツ、白いシャツ、白いタオル。猫がいても風景へ溶けてしまう。
菜都はしゃがみ、懐中電灯を消した。
遠くの車の音が薄くなり、布のはためきだけが残る。その中に、かすかな鈴が混じった。
給水塔の裏で、綿雪が洗濯籠へ入り込んでいた。風に驚き、出る時機を失ったらしい。
菜都が手を伸ばすと猫は縮こまったが、老夫婦の妻が名前を呼ぶと、ゆっくり顔を上げた。
綿雪を抱いて下りる間、各階の住人が踊り場へ出ていた。
「いた?」
「無事?」
いつも閉じていた扉が、今夜は少しずつ開いている。
一階の集会室で、管理人が大きなやかんを火にかけた。誰かが持ってきた茶葉、別の誰かの蜜柑、子どものビスケット。即席の茶会になった。
老夫婦は何度も礼を言い、綿雪は膝の上で目を閉じた。
「猫一匹で、ずいぶん集まりましたね」
菜都が言うと、管理人が笑った。
「集まる理由が、今までなかっただけですよ」
翌週、団地の掲示板には〈月一回、屋上清掃のあとお茶会〉と新しい紙が貼られた。
菜都が洗濯物を干しに上がると、綿雪はもう屋上へ出ないよう窓辺から見ていた。
冬の空気には洗いたてのシーツの匂いがあり、下の集会室からは焙じ茶の香ばしさが上がってくる。白い布の間で見つけた小さな鈴の音が、団地の廊下を以前より近くした。