左だけ曇る眼鏡
危機管理広報の九重冬馬は、会議の前に眼鏡の左レンズだけを曇らせる。
灰色の三つ揃いから小さな霧吹きを出し、左へ一吹き。視界を半分つぶしたまま資料を読む。
「見えない側から聞く」
安曇千景には、わざと不便になる意味が分からなかった。
その日相談したのは、取引先の新商品コピーが盗作だと炎上した件だ。小さな雑貨作家が、半年前から同じ言葉を使っていたという。だが千景は、取引先の企画書が一年前に作成されていた証拠を見つけた。
「こちらが先です。時系列を公開して、法的措置を示せば収まります」
「収まるのは火か、相手か」
「事実を出すだけです」
「事実は、置き方で鈍器になる」
冬馬は曇った左目のまま、雑貨作家の過去の投稿を追った。二人が同じ地域の復興ワークショップへ参加していたことを見つける。問題の言葉は、そこで名もない参加者が口にしたものだった。
どちらも盗んでいない。どちらも、自分だけの言葉だと思い込んだ。
千景は雑貨作家へ連絡する役を申し出たが、冬馬は止めた。証拠を突きつける声になっている、と言われ、自分が勝敗しか見ていなかったことに気づく。まず送ったのは、反論ではなく、何を望むかを尋ねる一文だった。
冬馬は取引先へ、勝利宣言ではなく共同声明を提案した。企画書の日時を示しつつ、言葉が生まれた場へ売上の一部を返す。雑貨作家にも掲載前に内容を見てもらう。
「無実なのに譲るんですか」
「譲るのは権利じゃない。見落とした人の存在だ」
取引先は渋ったが、法廷より発売日を選んだ。作家からは、短い了承と、ワークショップ名の正しい表記が届いた。共同声明の末尾には、問題の言葉を「発案者不詳」と記した。誰か一人の所有物にしないことが、二社の合意になった。千景は勝敗表を閉じ、問い合わせ欄へ初めて「経緯を一緒に確かめています」と返した。
案件が終わると、冬馬は千景の調査報告を経営会議へ送った。表紙には、担当者として彼女の名前が一番上にある。
「私、補助です」
「見つけた人間を見えない側へ置くな」
彼は布で左レンズを拭いた。入社以来初めて見る、両方澄んだ眼鏡だった。
「もう霧吹きはやめるんですか」
「君が左に座るなら必要ない」
冬馬は隣の椅子を引いた。
「見えない側から聞く。今日からそこは、部下の席じゃなくバディの席だ」