市章のない実証実験
自治体連携ファンドの審査会で、牧之瀬昂は調査会社の契約社員として議事録を取っていた。投資候補の防災スタートアップ「アークベル」は、三つの市で避難誘導アプリの実証に成功したという。
二十億円の評価根拠は、海代市との導入確認書だった。市長名、日付、市の角印。利用者一万二千人、満足度九十二パーセントとある。
昂は確認書の印影を見つめた。赤い四角の中に市名はあるが、市章がない。海代市の公印には中央に波形の市章が入る。印影は、観光パンフレットの表紙にある記念スタンプと同じだった。
創業者は、実証用の簡易印だと答えた。
昂は海代市の会議室予約記録を示した。確認書の日付である五月十七日、市役所は庁舎点検のため終日閉館。担当課長は県外研修中だった。電子メールで締結した可能性も調べたが、公文書管理システムに番号はない。
さらに利用者一万二千人という数字は、市の対象地区人口一万一千六百四十二人を上回る。創業者は観光客を含むと説明した。
昂は実証ログを投影した。端末登録数は千二百。投資資料では、その末尾にゼロが足されていた。満足度アンケートの回答は百十三件しかない。
ファンド理事は、実証の細部より技術の将来性を見るべきだと言った。昂は契約社員で、次の更新は理事の評価次第だった。
それでも記念スタンプの現物写真を確認書の横へ置いた。欠けた右上の角まで一致する。
「将来性を審査するために、過去を作り替えていいとは聞いていません」
昂は海代市の危機管理課長へ会議室から電話をつないだ。課長は、アークベルと実証した事実も、確認書を発行した事実もないと明言した。記念スタンプは駅前観光案内所に誰でも押せるもので、五月十七日の利用記録には創業者の名が残っていた。
課長の回答は録音され、発言時刻と本人の電子署名を添えて、その場で審査記録へ保存された。
理事長は公的資金の出資承認印を持ち上げたまま、市へ直接照会するよう命じた。市章のない赤い四角が、二十億円の決裁を囲い込んだ。