帰村印

御代川碧生は二十四歳の市役所臨時職員で、廃村資料の整理を任された。対象は、ダム建設で消えた矢来村の共同宿「境屋」の宿帳だった。

古い頁には、到着欄と退去欄の間に丸い印影がある。「帰村」の二文字。村外から来た者が住民になった印だと、引き継ぎメモに書かれていた。

音声記録・午前十一時十二分。

碧生「印箱に三種類あります。到着、退去、帰村」

主任「帰村は展示用です。表紙裏を読んでください」

碧生「《空欄へ「帰村」の印を押してはいけない》

主任「それだけ守れば大丈夫です」

午後、碧生は印影の欠けを撮影しようとした。朱肉をつけた実物を白紙へ押せば輪郭が取れる。しかしコピー用紙では歴史資料らしく見えない。彼は宿帳の最後の空欄を使い、一度だけ印を押した。

朱い円の中央に、押していないはずの氏名が浮いた。

御代川碧生。

慌てて頁を閉じると、主任から「今日はもう上がって」と言われた。主任には名前が見えていないらしい。

帰路、交通系ICで改札を通った。利用履歴には乗車駅の代わりに《矢来村》とある。路線検索では存在しない地名だ。翌朝も、翌々朝も、最初の利用駅だけが矢来村になった。

住民票の写しを取ると、本籍の下に《帰村日》という項目が増えていた。押印した時刻まで一致している。母へ確認すると、碧生が東京で生まれた記憶はあるのに、「矢来村から通学していたでしょう」と自然に話した。職員証の顔写真の背景も、いつの間にか共同宿の帳場になっている。昼休みに端末を伏せると、机の下から朱印を乾かす息が聞こえた。

券売機で定期券を更新すると、経由地に水没したはずの旧村道が印字された。運賃はゼロ円、所要時間は《帰るまで》だった。

一週間後、駅員にカードを調べてもらった。

「定期券の区間がおかしいですね。お住まい、こちらなんですか」

端末には《矢来村―市役所前》と表示されていた。碧生が違うと答えた瞬間、改札機の向こうで朱肉を叩く音がした。

ゲートが開き、いつもの女性音声が告げた。

「帰村を確認しました。おかえりなさい」