引っ越し前夜の冷蔵庫
「生ものは残さないでください」
大阪支社への転勤が決まった大河内麻衣の部屋で、宮野奏介は冷蔵庫の中身を見て言った。
同期として十年近く付き合ってきた二人は、引っ越し前夜も恋人らしい話をしなかった。卵を何個使うか、調味料を捨てるか、冷凍庫の餃子を焼くか。そういう相談なら、いくらでもできた。
奏介は麻衣が失恋した夜にも来たし、麻衣は彼が熱を出した日に鍋を作った。けれど近すぎる関係ほど、呼び名を変えるのが怖い。転勤は、その曖昧さを片づける期限になった。
二人で作った夕食を食べ終えると、床には空の皿と梱包テープの芯が転がった。明日の朝には引っ越し業者が来る。窓の外を走るいつもの電車も、麻衣がこの部屋で聞くのは最後だった。
奏介は紙皿を捨てながら、何度も「忘れ物はない?」と聞いた。麻衣はそのたび首を振った。忘れていきたくない人が目の前にいるとは、言えなかった。
冷蔵庫には瓶入りの粒マスタードだけが残った。賞味期限は三か月先。
「これは捨てますか」
奏介が尋ねる。
麻衣は瓶を取り、油性ペンで蓋に日付を書いた。翌月の第二土曜日。それから、新居の住所を小さく添える。
「その日に持ってきて」
「僕が?」
「奏介が」
初めて名前で呼ぶと、彼は瓶を落としそうになった。
麻衣はスマホで東京発大阪行きの列車を検索し、一番早い便を彼へ送る。奏介はすぐに予約画面を開き、座席を確定した。さらに翌々月は麻衣が東京へ戻る日を入れ、二人のカレンダーを交互の色で埋めていく。
「片づけ、終わってませんよ」
奏介が言う。
麻衣は食器棚からマグカップを二つ取り出した。一つを自分の箱へ、もう一つを奏介の鞄へ入れる。
「次に会うまで、預かって」
差し出された鞄の持ち手を、奏介の手ごとつかむ。彼も指を滑らせ、麻衣の手を包んだ。
部屋には段ボールしかない。なのに、からになったはずの場所が急に寂しくなくなった。
生ものは残さないでください。
だから麻衣は、腐らせたくない気持ちだけを、その夜のうちに次の約束へ変えた。