彼を知らない証言

【国家記録局・聴取録 第七四二号】

質問――被検者・鳥海公紀を知っているか。

回答――知りません。

回答者――千歳妙子。

妙子と公紀は、六年間同じ印刷所で働いた。

夜になると禁書とされた詩を刷り、地下の読書会へ運んだ。

恋人になったのは、逮捕者名簿へ自分たちの名を見つけた夜だった。

国家記録局には、反体制者を〈不存在者〉にする制度があった。

戸籍、写真、学籍、雇用記録を消し、国民全員へ「その人物を知らない」と証言させる。

存在を否定された者は、国外へ追放される代わりに処刑を免れる。

ただし一人でも「知っている」と答えれば、偽装は失敗する。

聴取室で、公紀は硝子の向こうに立っていた。

やせていたが、生きていた。

役人が妙子へ写真を示した。

「この男と同居していた記録がある」

「間借り人でした。名前は覚えていません」

「恋文が押収された」

「小説の下書きです」

「愛していたのでは」

「知りません」

公紀は何も言わなかった。

口を動かせば、彼女の嘘を壊すと分かっていた。

最後の質問が来た。

「この男が国外へ消えても、あなたの人生に影響はないか」

妙子は笑った。

恋人を知らないと証明するには、泣いてはいけなかった。

「ありません」

公紀はその笑顔を見て、ほんの少し頭を下げた。

二人の別れは、それだけだった。

翌日、公紀の名は公報から消えた。

印刷所の名簿にも、アパートの契約書にも、二人で撮った写真にも、最初から空白しかなかった。

十七年後、政権が倒れた。

妙子は港町の市場で、外国人の妻と娘を連れた男を見かけた。

白髪が増えていたが、公紀だった。

彼も妙子に気づいた。

娘が「知り合い?」と訊く。

一瞬だけ、彼の目が昔の印刷所へ戻った。

それから公紀は首を振った。

「知らない人だよ」

妙子は微笑み、通り過ぎた。

再会を望んだ夜は何度もあった。

けれど彼が新しい名と家族を得て生きているなら、自分だけが過去の証人として現れるべきではないと思った。

記録局の聴取録は、後年公開された。

歴史家は妙子の証言を、恐怖に屈した否認と注釈した。

彼女は訂正しなかった。

〈知りません〉という四文字だけが、公紀を死から遠ざけた。

世間に忘れさせるための嘘を、二人は生涯、別れの約束として守り続けた。