復元前の私たちへ
【関係記憶復元センター・最終確認】
申請者――柊谷美詠、比留木喬
希望復元点――二年前、六月十二日
担当者:
復元を実行すると、それ以降の記憶と人格変化は双方から消えます。よろしいですか。
喬:
はい。
美詠:
待ってください。
二年前の六月十二日。
二人は結婚十周年を祝い、海辺の宿で笑っていた。
その後、喬の父が倒れた。介護と仕事で彼は家へ帰らなくなり、美詠は一人で不妊治療を終える決断をした。
互いに相手を責めず、説明もせず、ある日、美詠が離婚届を置いた。
喬は後悔した。
美詠も、あの頃へ戻れればと思った。
関係記憶復元は、脳に保存された共同バックアップから、二人を指定日の状態へ戻す技術だった。
裏切りも失望も知らない夫婦へ、制度上は戻れる。
担当者:
復元後、お二人は介護の経過も治療の終了も覚えていません。外部記録は残りますが、閲覧しないことを推奨します。
美詠:
私たちは、また同じことを繰り返しますか。
担当者:
予測はできません。
喬:
今度は話す。僕は変わった。
美詠:
変わったあなたは、復元したら消えるでしょう。
喬は黙った。
彼は父を看取ったあと、初めて介護者の会へ通い、自分が「大丈夫」と言い続けて誰も家へ入れなかったことを知った。
美詠も離婚後、治療をやめた悲しみを友人へ話し、子どもを持たない人生を自分で選び直した。
二年前の二人は、まだその言葉を持っていない。
喬:
でも、今の僕たちは一緒にいられない。
美詠:
うん。
喬:
なら、戻るしかないだろ。
美詠:
戻ったら、別れを経験して学んだ私たちが死ぬのと同じだよ。
担当者:
復元を中止しますか。
美詠は端末へ手を置いた。
喬も、その上へ重ねた。
昔のように温かかった。
だからこそ、二人は長く手を離せなかった。
美詠:
中止します。
喬:
……同意します。
【処理結果】
復元申請、双方合意により撤回。
共同バックアップ、凍結保存。
帰り道、二人は海辺の宿の写真を開いた。
画面の中の夫婦は、これから何が起きるか知らず、幸せそうに笑っている。
「この二人を救えなかったな」
喬が言う。
美詠は首を振った。
「救えなかったんじゃない。あの二人が壊れたから、今の私たちが自分のことを話せるようになった」
「それでも別れる?」
「うん。話せるようになったから、もう一緒にいるべきじゃないことも分かる」
駅で別れる前、二人は共同バックアップの名称を変更した。
〈復元用〉から、
〈失敗ではなかった十年〉へ。
元どおりになれる技術はあった。
けれど戻るためには、元どおりではない自分たちを消さなければならなかった。
二人は過去の夫婦を復元せず、別れを知った二人として、別々の未来へ進んだ。