怒れる者は乗れない
矢代貫志は毎朝、改札で交通カードではなく手首をかざす。怒り値が三十以下なら扉が開く。車内暴力をなくした制度は、たしかに電車を静かにした。
その日、貫志の数値は二十八だった。
ホームへ降りたところで、妹の真帆から着信が入った。
「お兄ちゃん、今、駅にいる」
声が震えていた。真帆は隣町の改札前にいた。交際相手の嵩から逃げてきたという。頬の腫れを隠すようにマスクをして、貫志の画面越しでも呼吸が荒かった。
昨夜、真帆は「転んだだけ」と写真を送ってきた。貫志は嘘だと分かりながら、本人が否定するなら踏み込めないと思った。その遠慮が今になって怒りへ変わり、手首の数値が二十九へ上がった。
「電車に乗れ。こっちまで来い」
「入れない」
真帆が端末を映す。
《怒り値八十七。乗車不許可》
「怖いだけ。怒ってない」
《恐怖に伴う攻撃衝動を検出しました》
駅員は離れた場所から首を振った。直接なだめて数値を下げれば、職員自身の怒り値まで変動する。それを避けるため、判定には介入しない規則になっている。真帆の背後には朝の利用客が列を作ったが、誰も声を掛けなかった。巻き込まれて怒れば、自分も遅刻するからだ。
画面の向こうで嵩が現れた。息を切らしながらも、妙に穏やかな顔をしていた。
彼が改札に手首を置く。
《怒り値八。乗車可能》
扉が開いた。
「真帆、話そう。俺、落ち着いてるから」
真帆は後ずさった。貫志は自分の改札を逆に抜け、駅を飛び出そうとした。警告音が鳴る。
《怒り値三十四。再入場はできません》
「ふざけるな!」
四十二。五十一。
数値は声に追いつくように上がっていく。貫志のいるホームへ電車が滑り込んだ。向こうの駅では、嵩が開いた扉の内側から手を差し伸べている。
真帆は乗らなかった。
代わりにホームの非常停止ボタンへ走った。押す直前、駅の判定表示が赤く光った。
《危険人物一名を検出》
貫志の画面には、妹の顔だけが赤い枠で囲まれていた。
発車ベルは、いつもと同じ優しい音だった。