恋人席は六十日間

高齢者住宅〈ひなた館〉の改修中、入居者は六十日だけ海辺の施設へ移された。

食堂では、希望者同士を毎日同じ席へ案内する〈お連れさま制度〉があった。

風早千代乃、七十九歳。

秩父平蔵、八十三歳。

二人は初日に隣り合い、三日目から「恋人席」と呼んだ。

「恋人なら、魚の皮を取ってください」

「自分で取れる人は対象外です」

「気が利かない」

「恋人歴三日ですから」

千代乃は夫を十五年前に亡くし、平蔵は生涯独身だった。

朝は砂浜を歩き、午後は将棋をし、夜には互いの昔話を一つずつ交換した。

期限があるせいか、過去を隠さず話せた。

千代乃は夫をまだ好きだと言った。

平蔵は、それでも嫉妬すると答えた。

二人は声を立てて笑った。

五十日目、退去先が通知された。

千代乃は北海道の娘の家近くへ。

平蔵は故郷の寺にある兄の墓を守るため、四国へ戻る。

「どちらかが引っ越せば」

職員が言った。

二人は同時に首を振った。

千代乃の娘は長年、母を呼び寄せる準備をしていた。

平蔵には、毎月掃除してきた兄夫婦の墓と、近所の囲碁仲間がいる。

残りの人生で新しい恋を得たからといって、古い人生を捨てる理由にはしたくなかった。

六十日目の朝、恋人席には二人分の焼き魚が並んだ。

「電話します?」

千代乃が訊く。

「耳が遠い」

「手紙は?」

「字が汚い」

「便利な言い訳」

「本当は、返事を待つ一日を作りたくない」

千代乃はうなずいた。

老いてからの時間は、若い頃より短い。

だから待つ約束ではなく、会えた六十日をそのまま受け取りたかった。

食後、平蔵は魚の皮をきれいに外し、千代乃の皿へ置いた。

「最終日だけサービスです」

「遅いですね」

「恋人歴六十日なので」

送迎車は反対方向へ出た。

二人は玄関前で握手した。

「長生きしてください」

「競争しますか」

「結果を確かめられないでしょう」

「それでいい」

車が動き出す。

千代乃は窓から笑って手を振り、平蔵も杖を高く上げた。

恋人席は翌日、別の二人に使われた。

北海道の食卓で千代乃は魚の皮を見るたび笑った。

四国の食堂で平蔵も、誰にも頼まれず皮を外すようになった。

六十日で終わった恋は、続きを持たなかった。

その代わり二人の残りの日々へ、小さな新しい癖を一つずつ残した。