感覚返却記録・未返却三件

【感覚共有契約・終了処理】

申請者甲――視覚過敏。

申請者乙――先天性色覚欠如。

共有期間――八年。

恋人同士は、互いの感覚を一部貸し借りできる。

甲は乙へ色を貸した。

乙は甲へ、光を痛みなく見る静けさを貸した。

二人は同じ夕焼けを、甲の色と乙の穏やかさで見た。

赤は〈夏の終わり〉、青は〈眠る前〉、緑は〈帰る道〉と、二人だけの名をつけた。

別れの理由は単純だった。

甲は眩しい都会を離れ、暗い山の観測所へ行く。

乙は色彩治療を受ける子どもたちの教師として、都へ残る。

どちらかが仕事を捨てれば、借りた感覚を相手のために使い続けることになる。

終了装置が、共有したものを順に返した。

【返却一】

甲から乙へ貸与された赤色知覚。

処理完了。

乙の視界から夕焼けの赤が消えた。

空は明暗だけになった。

【返却二】

乙から甲へ貸与された低刺激視野。

処理完了。

甲は室内灯の白さに目を細めた。

八年ぶりの痛みだった。

担当官が確認する。

「未返却の感覚はありますか」

甲は答えた。

「雨の前、乙が肩を上げる気配」

乙も言った。

「甲が赤を見ると、少し息を止めること」

装置を調べても、貸与記録にはなかった。

長く一緒にいたため、相手の反応を自分の感覚のように覚えただけだった。

【未返却一】

赤を〈夏の終わり〉と呼ぶ習慣。

【未返却二】

暗闇を怖がらず、休息と感じる習慣。

【未返却三】

景色を見たとき、隣の人がどう見ているか想像する習慣。

担当官は首を振った。

「これらは返却対象外です。個人の学習として定着しています」

二人は笑った。

すべて戻せば、出会う前の自分へ戻れると思っていた。

だが、相手を通して覚えた世界の見方は、どちらの所有物でもなかった。

装置を出たあと、甲と乙は夕暮れの広場へ立った。

甲には赤が痛いほど鮮やかだった。

乙には明るい空がゆっくり暗くなるだけだった。

「きれい?」

乙が訊く。

「うん。夏の終わりの色」

「もう冬だけど」

「名前は返せなかったから」

乙は笑った。

二人は反対方向へ歩いた。

別れによって、借りた感覚はすべて返した。

それでも相手と見た八年分の世界は、自分の中へ残った。

失ったのは恋人一人ではない。

もう二度と完全には戻れない、出会う前の自分でもあった。