手のひらの言葉

わたしの世界には、人間の声の意味がない。

水を震わせる足音はわかる。朝の光、餌の影、近づく顔もわかる。けれど人間が口を動かしても、わたしには泡の出ない呼吸にしか見えない。

この家へ来た日、小さな人間も同じように、みんなの口を見ていた。

名前は羽澄。耳に銀色の機械をつけていた。大人たちは彼女へ大きく口を開き、ゆっくり話した。羽澄は笑ってうなずき、部屋へ戻ると、わたしの前でだけ顔をしかめた。

「聞こえないんじゃない。聞き取れない日があるの」

彼女は声を出さず、手で話した。

開いた手を胸に置く。指を折る。空中に形を描く。

わたしは意味を知らなかった。でも、羽澄の手が速い日はうれしく、止まる日は悲しいことを覚えた。彼女が水槽へ指を近づけると、わたしは追った。それだけで羽澄は笑った。

学校で発表がある前夜、羽澄は泣いて帰った。

「みんなの前で、声で話せって。手だけじゃ伝わらないって」

彼女は原稿を丸めた。水槽の底へ沈む影に驚き、わたしは反対側へ逃げた。

羽澄はすぐ紙を拾い、ガラス越しに手を合わせた。

ごめん。

その形だけは、何度も見たから知っていた。

翌朝、羽澄は発表を断らなかった。

教室の前に小さな水槽を置き、わたしを連れていった。最初に声で、自分の名前を言った。次に、同じ言葉を手で表した。

「金魚は、人の言葉の意味を知りません。でも、近づく影や、水の揺れや、毎日餌をくれる手を覚えます」

声が途切れると、彼女は手だけで続けた。先生が止めようとしたが、隣の席の子が立ち、覚えたばかりの手話を声にした。

「聞こえ方が違っても、伝える方法は一つじゃない」

一人、また一人と、羽澄の手を見て言葉をつないだ。

わたしは水槽の中を泳いだ。教室中の手が、光る水草のように揺れていた。

それから十年、羽澄は子どもたちへ手話を教える人になった。わたしは年を取り、底で休む時間が増えた。それでも彼女は毎朝、ガラスの前で手を動かした。

おはよう。

今日もいるね。

最後の朝、わたしはうまく浮かべなかった。

羽澄は泣きながら、手のひらを水槽へ向けた。

ありがとう。

声の意味を知らないわたしにも、その言葉ははっきり見えた。

わたしは尾を一度だけ動かし、彼女の手の影へ近づいた。