指の向こうを泳ぐ
ぼくたちは、ガラスの外の名前を知らない。
知っているのは、朝にカーテンを開ける大きな影と、ベッドの上で動かない小さな影だけだ。
小さな影は、最初、右手を布に包んでいた。大きな音がすると体を縮め、ぼくたちの水槽を見ているときだけ、呼吸がゆっくりになった。
ある日、白い服の人が言った。
「苑路、指を一本だけ動かしてみよう」
小さな影――苑路は首を振った。右手を胸へ隠した。けれど白い服の人が去ると、ぼくの前へ人差し指を置いた。
ぼくは、その指を追った。
右へ行けば右へ。左へ行けば左へ。指が止まれば、ぼくも止まった。
苑路はもう一本、指を伸ばした。
次の日も、その次の日も、ぼくらは同じ遊びをした。五匹の仲間は餌のほうが大事らしかったが、ぼくは指の向こうにある苑路の目が、少しずつ明るくなるのを見ていた。
やがて包帯が外れた。赤く引きつれた手を見て、苑路は泣いた。ぼくには傷が何かはわからない。ただ、水草も折れたところから新しい葉を出すので、似たようなものだと思った。
苑路は毎日、ガラスへ五本の指を広げた。ぼくは一本ずつの間を泳いだ。白い服の人は「昨日より曲がった」と喜び、大きな影は窓辺で顔を覆った。
夏の終わり、苑路は退院することになった。
「この子も連れて帰れますか」
苑路がぼくを指さした。
大きな影は困ったように笑った。水槽は病院のもので、ぼくはみんなのものらしい。苑路は長い間黙り、それからガラスへ右手を当てた。
「じゃあ、元気で」
指が右へ動く。ぼくは追う。
左へ動く。ぼくも追う。
五本がゆっくり握られ、また開く。
以前は一本も動かなかった手だった。
苑路が見えなくなったあと、水槽の前はしばらく空いていた。秋になり、新しい小さな影がベッドへ来た。今度の子は左脚を動かさず、天井ばかり見ていた。
ぼくはガラスの近くを泳いだ。けれど、その子は気づかない。
そこで右へ、左へ、何度も泳いだ。苑路が教えてくれた遊びだった。
やがて、小さな足の指が一つ、毛布の下で動いた。
ぼくたちは、ガラスの外の名前を知らない。
それでも、誰かが動かした最初の一歩を、水の中で受け取り、次の誰かへ渡すことはできる。