推し色のコートは裏口へ
日向野璃子は、保険会社で「色を間違えない人」と呼ばれている。紺のスーツ、白いブラウス、黒い靴。だが休日のファンアカウント「薄荷糖」には、ガールズグループPale Paletteの推し色で組んだ服を毎週載せていた。
十二月の朝、クリーニング店の手違いで、仕事用のコートが戻らなかった。璃子は迷った末、青緑のロングコートを着た。袖口に自分で縫った星形の刺繍がある。昨夜「薄荷糖」が投稿し、珍しく一万件近く反応された一着だった。
エレベーターで同乗した営業部の鴻池課長が、袖口を見た。課長は服装にも言葉にも厳しく、若手から恐れられている。
「それ、正面玄関から入らないほうがいいわ」
身バレした。しかも叱られる。璃子の背中が冷えた。
「今、駅前でメンバーが撮影してる。ファンが集まってるから、そのコートなら写真に映っただけでアカウントを特定される」
課長は地下駐車場のボタンを押した。鞄から覗いた定期入れには、Pale Paletteの古いロゴがあった。
「課長も、好きなんですか」
「私は見る専門。あなたの配色表、保存してる」
課長は、璃子のアカウントへ一度も反応を送ったことがなかった。職場の人だと気づいた時点で、知らない読者のふりを続けるのが礼儀だと思ったからだという。その距離の取り方に、璃子は救われた。身バレとは、秘密がなくなることではない。知った人が、その秘密をどう持つかでも形が変わるのだ。
地下通路を歩きながら、課長は会社でアカウント名を呼ばなかった。昼休みには、正面玄関付近の写真に璃子が映っていないか一緒に確認してくれた。
帰り際、璃子はコートを紙袋へ隠そうとした。課長が首を振る。
「服は悪くない。場所を選ぶだけ」
次の金曜日、部署の服装自由デーに、璃子は同じコートを着た。袖口を内側へ折らず、星を見えるままにした。
課長はすれ違いざま、「今日の配色、九十点」と言った。
「残り十点は?」
「靴。薄荷糖さんなら、そこに白を置くでしょう」
二人は会社ではじめて、同じ秘密を笑った。