明日を黙らせる片耳栓
夜の鐘が十二を打つと、音具店〈しじま堂〉は一刻だけ扉を開く。
その夜、店主のイヴァンナを訪ねたのは予言官ユースティだった。開店を告げる看板を出すより早く、彼は扉の前で両耳を押さえていた。銀の制服は立派だが、目の下には濃い影が沈んでいる。
「眠れないのですか」と問うと、彼は首を振った。
「眠る前が、うるさい」
日が落ちるたび、明日起こる不幸の声が耳へ流れ込む。転ぶ者、別れる者、死ぬ者。王宮は有益な力だと褒め、もっと聞けと命じる。予言が外れれば無能と責め、当たれば次を求めた。けれど彼は、どの声も救えないまま朝を迎えていた。
イヴァンナは小箱から、黒曜石の耳栓を一つ取り出した。
「〈選音栓〉。片耳にだけ入れてください。聞くべき声を自分で選び、それ以外の明日を黙らせます」
「予言を拒めば、役目を失う」
「商品は役目を守りません。あなたの耳を守ります」
ユースティは長く黙り、右耳へ栓を入れた。
店内から音が消えた。壁時計も、通りの馬車も、未来の悲鳴もない。残った左耳には、炭火のはぜる音と、自分の呼吸だけが届く。イヴァンナがわざと銀匙を落としたが、右耳は沈黙したまま。選ばなかった音が、本当に自分へ入ってこない。
やがて遠くから、一つの声がした。
――明日は雨。傘を忘れないで。
幼い自分が、昔の母に言われた言葉だった。ユースティは顔を覆った。予言ではない。聞きたいと自分で選んだ記憶だ。
「外しても戻ります。必要な時だけ使えばいい」
彼は栓を抜き、押し寄せた未来の声に眉を寄せた。けれど今度は、それが命令ではなく、閉められる扉の向こうの騒音だと分かった。それでも先ほどまでの絶望はない。もう一度栓を入れ、今度は迷わず静けさを選ぶ。
「金貨二枚ですね」
値札どおりを置いたあと、王宮予言官の銀章も外して机へ置いた。
「これは代金ではありません。今夜、この役目を返す場所が必要だっただけです」
ユースティは軽くなった襟元を撫で、静かな右耳を月へ向けて帰っていった。
イヴァンナが銀章を忘れ物箱へ納めた瞬間、入口のベルが、澄んだ一音を落とした。