昔の呼び名を捨てる駅
「その呼び方、もうやめて」
粟生鈴葉は、中学一年で町を去る槙野敦紀にそう言った。
敦紀だけが使う《すずちゃん》という呼び名が、子ども扱いされているようで嫌だった。本当は、別れ際に泣きそうな顔を見られたくなかっただけだ。敦紀は「分かった」と答え、それきり手紙にも名前を書かなかった。
十五年後、鈴葉は地方取材の帰り、乗り換え駅で足止めされた。強風で特急が運休し、待合室には行き場のない乗客があふれている。
窓口で振替を尋ねていた男性が振り向いた。
敦紀だった。
互いに一度は気づかないふりをし、二度目に目が合って、ようやく笑った。彼は出張帰りで、鈴葉と同じ街に住んでいるという。十五年も離れていたのに、今は地下鉄で三駅の距離だった。
「粟生さん、荷物持つよ」
「ありがとう、槙野さん」
名字で呼び合うたび、知らない大人同士のようだった。
臨時列車が来るまで一時間。二人はホームの端で缶コーヒーを飲んだ。敦紀は昔のことを何も持ち出さなかった。鈴葉がやめてと言った約束を、律儀に守っている。
列車が入ると、人の波が一斉に動いた。鈴葉の手から切符が落ち、拾おうとした瞬間、背後から押される。敦紀が腕を引き、胸元へ抱き寄せた。
「危ない、鈴葉」
呼ばれた名前に、時間が止まった。
敦紀はすぐ手を離そうとしたが、鈴葉がコートの袖をつかむ。
「今の、もう一回」
「嫌だっただろ」
「嫌だったのは、子どもみたいな呼び方。名前は嫌じゃない」
鈴葉は自分から彼の手を取り、混雑した車内へ乗った。席は一つしか空いていない。敦紀は鈴葉を座らせ、自分は前に立つ。鈴葉はつないだ手を膝の上へ置いたまま離さない。
スマホで次の日曜の予定を開き、二人の最寄り駅の中間にある店を登録した。
「敦紀も来る?」
「行く。鈴葉が呼ぶなら」
その呼び方はもうやめて、と言った昔の鈴葉は、彼を遠ざけるために大人になりたかった。
今の鈴葉は、名前で呼び合える大人として、同じ終着駅まで彼の手を選んだ。