時差七時間の腕時計

午前六時五十分。梶谷允人は羽田行きの空港バスで、帆足弥生からの通話を待っていた。パリは前日の二十三時五十分。二年間、日曜のこの十分だけは、互いの仕事を理由にしなかった。

左腕の時計は七時間遅らせてある。弥生が留学へ出る朝、「私の時間を忘れないで」と巻いたものだ。革ベルトの裏には、空港でこぼしたコーヒーの薄い染みが残っている。弥生が眠れない夜は、允人が時計の写真を送り、『こっちは朝だから一人じゃない』と伝えた。七時間の差を、二人だけの一日に足してきた。文字盤の縁には、弥生が出国前夜に爪でつけた小さな傷があり、零時の目印になっていた。通話ができない週も、允人はその傷が上を向く時刻に窓を撮り、弥生は七時間前の空を返した。

六時五十二分、画面に弥生が映った。暗い部屋で、段ボールを背にしている。

「今日で、日本時間に合わせるのやめる」

允人は笑おうとして失敗した。先月から弥生の返信は短く、帰国時期を聞いても「まだ分からない」だった。遠距離を続けるために転職まで断った自分だけが、二年前の約束に留まっていると思っていた。

「分かった。俺も言うことがある」

「待って、先に――」

「モントリオール支社へ行く。今日の便で」

弥生の表情が止まった。

「どうして黙ってたの」

「決まってから言おうと思った。そっちと同じだよ」

回線が乱れ、音が消えた。允人は切れた画面へ「元気で」と言った。

バスが空港へ着くまで残り四分。時計の竜頭を引き、パリ時間を現在の日本時間へ戻す。秒針が止まった。

そのとき航空会社からメールが届いた。弥生が共有していた旅程だった。

〈パリ発―羽田着 本日十四時二十分〉

続いて、途切れた通話の字幕が復元される。

〈日本へ帰るから、もう日本時間に合わせなくていい〉

允人は窓の外を見た。帰国便が降りるころ、自分は北米へ向かう空の上だ。変更不可の赴任便。会社には、現地で三年働くと署名している。

弥生から〈空港で待ってる〉と届いた。彼は「行けない」と打ち、理由を書き、送信しないまま画面を閉じた。

バスが国際線ターミナルへ入る。允人は止めていた秒針を動かし、時計をモントリオール時間へ合わせ直した。