書店の軒に一冊分

 柊坂伊吹は、商店街の古書店から出たところで雨に捕まった。

 空は明るかったのに、大粒の雨が屋根を鳴らし、通りの人々が一斉に軒下へ逃げ込む。

 伊吹は買ったばかりの文庫本を上着の内側へ入れた。

 同じ軒下に、杖を持った老人がいた。

 老人は紙袋を胸へ抱え、雨の向こうを眺めている。

「本、濡れませんでしたか」

 伊吹が訊くと、老人は袋を少し開けた。

「濡らしたくないものほど、雨の日に持ち歩きたくなる」

 中には、表紙の擦れた料理本が一冊入っていた。

「奥さまへの贈り物ですか」

「いや、妻が昔使っていた本。今日、買い戻した」

 古書店へ売ったわけではない。引っ越しの際に処分し、その後ずっと気になっていたという。店の棚で、同じ版を見つけたらしい。

「同じ本でも、同じものではないでしょう」

「そうだね。でも、頁を開けば同じ煮物の匂いがするかもしれない」

 伊吹は自分の文庫本を見た。

 仕事を辞めようか迷い、気分転換に買った小説だった。何か答えが書いてあるような気がして選んだが、まだ一頁も読んでいない。

「本に答えを探すこと、ありますか」

「答えは見つからないことが多い」

 老人は笑った。

「でも、迷っている間に座る椅子くらいは貸してくれる」

 雨は軒先から幕のように落ちていた。

 店主が中から折り畳み椅子を二脚出してくれた。

 二人は並んで座り、それぞれの本を開いた。

 伊吹の小説は、主人公が朝食の卵を焦がす場面から始まった。老人の料理本からは、長く挟まれていた紙片が一枚落ちた。

 昔の買い物メモらしい。

〈大根、油揚げ、生姜〉

「今夜、作ってみます」

「誰に?」

「自分に。妻はいないから」

 老人は紙片を本へ戻した。

 十五分ほどで雨が弱まった。

 路面から湿った土と埃の匂いが上がり、向かいのパン屋から焼けた小麦の香りが流れてくる。

 老人は杖を持ち、伊吹へ軽く頭を下げた。

「よい椅子でした」

「本の?」

「雨宿りの」

 伊吹はすぐ駅へ向かわず、古書店の軒でもう一頁読んだ。

 仕事を辞める答えはなかった。

 けれど今夜は卵を焦がさない程度の火で、ゆっくり夕飯を作ろうと思えた。

 雨上がりの商店街には、本の紙と煮物の生姜を想像させる、静かな温度が残っていた。