最後のモップ

学校の用務員は、定年の日を誰にも知らせなかった。

朝早く来て廊下を拭き、壊れた椅子を直し、放課後に門を閉める。

名前を知る生徒は少ない。

退職前日、倉庫の奥から透明な雨合羽が出てきた。

着ると姿が消えたが、手に持った物だけは見えた。

用務員は面白半分で、放課後の校内を歩いた。

宙に浮くモップを見られないよう壁際へ寄せる。

教室では、生徒たちが卒業式の飾りを作っていた。

一人が言った。

「明日から、あのおじさんいないんだって」

用務員は足を止めた。

「誰?」

「門のところの人」

「怖い人?」

「違う。雨の日、傘壊れたの直してくれた」

「私、名前知らない」

「私も」

別の生徒が、

「花壇の札、全部あの人の字だよ」

と言った。

用務員は嬉しくなり、同時に寂しくなった。

名前を知られなくてもよいと思っていた。

けれど最後くらい、覚えてほしかった自分がいた。

体育館では教員たちが話していた。

「送別会、本人が断った」

「目立つの嫌いだから」

「本当は、誰も声をかけなかっただけじゃないか」

用務員は透明なまま倉庫へ戻った。

雨合羽を脱げば、普通の自分が現れる。

このまま何も言わず帰れば、皆の優しい話だけを持っていける。

だが、それではまた相手に決めさせることになる。

翌朝、用務員は校内放送室へ行った。

マイクを借り、

「今日で仕事を終えます。名前を知らない人も多いと思います」

と話した。

声が震えた。

「私の名前は、昇降口の修理票に書いてあります。覚えなくてもいいですが、会ったら一度、呼んでください」

昼休み、廊下を歩くと、生徒が次々に名前を呼んだ。

読み方を間違える子もいた。

用務員は一人ずつ訂正した。

最後の掃除で、透明な雨合羽を着ようと思った。

しかし倉庫から消えていた。

代わりに、モップの柄へ色紙が巻かれている。

「ありがとうございました」

名前ではなく、たくさんの手書きの言葉が並んでいた。

退職後、用務員は週に一度、地域の修理教室を開いた。

学校の生徒も来る。

以前と同じように、壊れた物の方を見て作業する。

ただ、帰るときは必ず顔を上げる。

誰かに名前を呼ばれたら、聞こえないふりをせず、

「はい」

と答えるために。