最後の苦情係

椹木柊吾の肩書は、市民応答局・最終人間確認員だった。

行政判断はすべてAIが行い、苦情も解析から回答まで自動で終わる。ただし法律上、最後に一人だけ人間が「確認しました」を押さなければならない。柊吾は週に一度端末を開き、数万件の要約へ同じ印をつけた。働いているとは誰も考えず、本人もそうだった。

柊吾自身、誰かに不満を話したことがなかった。孤独なら交流映像、怒りなら鎮静プログラムが届く。父の葬儀で泣けなかったときも、悲嘆反応は正常範囲と通知され、それで終わった。人に話せば、相手の時間を奪うと思っていた。

ある日、一件だけ要約不能の印がついた。

――夫の死を、効率では説明しないでほしい。

通話を開くと、老女の声がした。救急搬送の順番は適正で、死亡確率も規定内だった。AIは何度もそれを説明したらしい。

「何をご希望ですか」と柊吾は台本を読んだ。

「希望なんてないよ。あの人が朝、卵を割るとき必ず歌ったって、誰かに知ってほしいだけ」

柊吾は返答候補を探した。慰謝、記録、再審査。どれも違った。

「どんな歌ですか」

老女は少し黙り、下手な鼻歌を聞かせた。通話は四十七分続いた。柊吾は一度も解決策を提示できなかった。

通話後、柊吾は初めて自宅で卵を割った。殻が入り、黄身が崩れた。鼻歌は思い出せなかったが、老女の夫が存在した朝を想像した。苦情の処理件数には何も加算されない行為だった。けれどその日から、要約文の奥に暮らしている人を考えるようになった。

翌週から、要約不能の苦情が増えた。病室の窓から海が見えなかったこと。自動葬儀の花が故人の嫌いな色だったこと。子どもの不登校が改善した数字の裏で、友人を失ったこと。

柊吾は印を押す前に、一件ずつ声を聞いた。効率は百二十分の一に落ち、局は彼を不適合と判定した。

解任通知の日、最初の老女から卵が届いた。殻には、震える字で「聞いてくれた人へ」とあった。

柊吾は自宅の一室に椅子を二脚置いた。看板には《解決しない相談室》と書いた。報酬も資格もない。それでも毎朝、誰かが扉を叩いた。

人類が働き方を忘れた時代に、柊吾は役に立たないことへ責任を持つようになった。